この国の行方

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8億円以上も安い国有地の払い下げ。
35億円もの公有地ただで譲渡し、更に96億円もの助成金交付。
主務官庁の文科省トップの事務次官が認可4条件を満たしていないと判断していたのに、「広域的に獣医師養成大学が設置されていない地域に限」るなんて条件を突然付け加えて京都産業大学を競争の入り口にも立てなくさせて、はじきだして、加計学園を認可した。
これ、どう考えてもおかしい。
ならば、極端に安い値段で払い下げしたことや、おかしな条件を付け加えて京都産業大学を競争の入り口にも立たせずにはじきだし、4条件を満たしていないとされていた加計学園を認可したことの経緯や根拠をきちんと国民に向けて説明するのが、かかわった役所の責任のはずだ。
そして、役所が進んであきらかにしないなら、「行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負う」内閣には、率先して「行政各部に対する指揮監督権」を使ってきちんと調査して、国会に対して説明・報告する責任があるはずだ。 でも、何も説明していない。説明しようともしていない。
「適正な価格と承知している」なんて、説明になっていない。
「交渉記録は破棄してしまった」って、何の説明にもならない。
「調査したけど確認できなかった」って、国民をバカにしてるのか?
そういえば、かって薬害エイズのときも、厚生省は、患者・原告団がエイズ研究班の資料の提出を再三要求しても「資料の存在を確認できない」と言い続けていたことを思い出す。あのときは、自民・社会・新党さきがけ3党による連立政権が発足し、菅直人氏が厚生大臣に就任した途端、「薬務局ファイル」「保健医療局ファイル」「郡司ファイル」「風間ファイル」など計41冊、約9,000頁に及ぶ資料が「発見された」として開示された。
あの時、資料の「発見」・開示に至ったのはどうしてか?
第1に、エイズ差別に打ちのめされ、息をひそめていた原告たちが、声を挙げ、闘いの先頭に立つようになり、その姿に打たれた広範な国民が、患者救済と真相究明の運動に起ち上がったこと、そして、そこにはたくさんの若者たちが加わり、既存の運動とはあきらかにスタイルの違う生き生きした運動を展開したこと
第2に、マスコミ各社が、こぞってそうした患者たちを支援し、救済と真相究明を求める論陣を連日のように張り、患者原告の実状やその声更には全国の運動を報じ続けたこと、
第3に、こうした動きに後押しされて厚生大臣が、厚生省内に調査プロジェクトチームを設置し、「調査は、その進め方や手続き、それ自体が国民に納得されるものでなくてはならない。誰に対し、また何について、どういうかたちで調査したかを明かにする必要がある。調査は、行政に対する国民の疑問に答えることを目標とし、少なくとも、東京・大阪両裁判所の和解勧告所見、NHKのエイズ特集番組、枝野幸男議員の質問主意書で指摘された問題で、プロジェクトチームの調査項目に含まれる事項は、もれなく調査すべし」という大臣直接の指示の下で調査が実施されたこと
という3つの背景を指摘できる。
いま、これと比較すると、第2と第3が、決定的に欠けていることに気付く。 第2の点 マスコミは、「マスゴミ」と揶揄されるほど、極く一部を除き、真相究明のために闘うのではなく、真相をぼかし、重要な事実を隠し、あきれることには、官邸と一緒になって、真相究明のために行動した個人への人格攻撃までしている。
第3の点 エイズの時の大臣指示と、今の官邸・大臣らの態度とは、180度違っていることは歴然としている。
そして第1の点でも、シールズや「明日わか」「ママの会」などは、あるものの、それでも若い人たちの運動への参加は、薬害エイズ時のそれと比べると、まだまだ遠く及ばない。

この違いはいったい何なのか。どうしてこんな違いが出来てしまったのか。
この国はいったいどうなってしまったのか。

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そして…
共謀罪での「強弁」につぐ「強弁」、あるいは「あいまい答弁」、あるいは「迷走答弁」。野党議員から提示される疑問や懸念には、何一つ具体的に答えず、野党議員がまっとうに提起した様々な疑問を「足を引っ張るだけ」と悪しざまに罵って行われた強行採決。
国連特別報告者の書簡にもまともに答えず、切り捨てる。
各界・各層からあがる反対のアピールも一顧だにしない。
法務委員会の質疑を「足をひっぱるだけの討議」と言い放ち、打ち切りを大声で叫んだ維新議員。
「ある」ものを「無い」と言い、「確認できない」と言ってはばからない大臣や副大臣。
れっきとした動かぬ証拠を「怪文書」と切り捨て、「地位に恋々としがみついた」などと、事実でもない中傷を浴びせる官房長官等々。
どう考えてもおかしい振る舞いを続けている政権与党の幹部たちなのに、国会の3分の2を占める議員たちや、官僚たちは、そのおかしな幹部たちに唯々諾々と従い、そのお先棒をかつぎ続けている。
彼らは、自分たちが、今、この国の将来に対して何をしているのか、全くわかっていない。わかろうともしていない。
そこには、目の前の課題の一つ一つについて、しっかりと歴史から学び、事実を深く広く確かめて、その持つ意味と国民に及ぼす影響を考え抜き、自らの責任においてこれへの出処進退を決めていく姿勢は、全く見ることができない。
それなのに、そんな彼ら(安倍政権)に対する国民の支持率は、一向に下がろうとしない。

これは、いったい何なのか。どうしてこんなことになってしまったのか。この国はいったいどうなってしまうのか。

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2年前、私は、このブログで「ホラーの定番 今ここにあるリアルなホラー」と題した記事で次のように書きました。

「ヒトラーや、東条英機や、石原莞爾や、甘粕大尉のような人物が、彼らが語ったような言葉で彼らが語った大東亜共栄圏や八紘一宇、神州不滅の思想を語って選挙を闘うなら、国民はまかり間違っても彼らに300議席を与えはしないであろう。そのことは、前回選挙での「次世代の党」の結果を見れば明らかである。
だが、彼らは、決して独自の政党を結成しようとはしない。その代わりに、既存の政党(それは自民党に限らず、民主党などの野党も含まれている)の中に浸食し、既存の政党を変質させるという戦術を採っている。
その結果、与野党の別なく289名もの国会議員が日本会議国会議員懇談会に参加し、現政権の閣僚のほとんど(19名中14名)が日本会議国会議員懇談会のメンバーで占められるようになっている。更に地方議会では、日本会議地方議員連盟に参加する議員が1691名に及んでいる。既に既存政党の内部侵食はほぼ完成の域に近づいているのだ。
こうして既存政党の仮面をかぶり、「神国日本の復権」を「美しい伝統ある日本文化の継承」と言い替え、「アジア解放のための聖戦を闘った日本の復権」を「誇りを取り戻し国と郷土を愛する国民を育てる」と言い替え、「西欧型民主主義の否定」や「憲法の平和主義への憎悪」を「戦後レジュームからの脱却」と言い替え、「教育勅語や修身教育の復活」を「教育の再生」と言い替えるなど、耳触りの良い言葉で国民からその本当の姿を隠すことによってこんなアナクロニズムの集団が政権を掌握するまでになっているのだ。既に自民党は、かってのあの自民党とは全く異質のものになっているのだ。」と。

この私の指摘は、国会議員や地方議会議員の内部での極右・国粋主義の浸食を取り上げたものでしたが、今は、変質を、議員だけに限ってとらえることはできません。もっと広範に、もっと深く浸食は進んでいるのです。
「もっと広範に」というのは、極右・国粋主義への直接の変質に限らず、そうした変質を許してしまう土壌を用意するような国民全体の変質が進んでいるという意味です。
「もっと深く」というのは、極右・国粋主義への直接の変質が、議員だけでなく、官僚の一部や、企業のトップ、言論界、更には労働組合の一部にまで広がり、それとともに、これまではひっそり隠れて進んでいたのが、隠れた本当の顔を隠そうともしなくなっているという意味です。

前者の国民の変質に関して、豊永郁子氏(早大教授)が、新聞紙上で、次のように書いています。

「若い頃は、政治にとって最も重要なのは教育だと言われてもピンとこない。気の長い迂遠な話だと思う。ところが、世の中の風潮がガラリと変わるのを何度か体験すると、変化の駆動力が世代の交代にあるらしいこと、新しい世代があっという間に育つことに気付かされる。
つまり、次世代への教育が、意外に早く大きな効果を表すことを知る。実際、それは新しい価値観をもった若者たちを5年、10年のうちに世の中に送り込める。これによって支配的イデオロギーを覆すことも可能だ。安倍氏とその周辺は、第1次政権時代あるいはその前から、このことを意識していたのだろう。そのイズムは徐々に目鼻を整え、浸透できる場所には着実に浸透してきた。
冷笑を浴びた10年前の「美しい国」キャンペーンも空振りではなかった。安倍氏は攻める場所と効果のときを心得ているようだ。」

豊永氏が10年あれば、世の中の風潮をガラリと変えることが可能と指摘している教育の根本精神を「自主・自立した個人を育てる教育」から「国家統制のもとでの教育」へと変更する教育基本法の「改正」がなされたのは第1次安倍政権下の平成18年、つまり11年前になります。そして、この5月24日、改正学校教育法が成立し、特定の職業に特化した教育をする専門職大学の創設に道が開かれています。これまでも政権は、大学を将来の日本を背負う広い見識を持つ自立した個人を育てる教育機関から、技術だけを教え、企業に有意な人材を育てる教育機関に変える方向で、文化系の学部や大学に対するしめつけを強めていましたが、それがついに、ここまでいきついたのです。
国民の変質を用意したのは教育だけではありません。
例えば、読売新聞は、10年どころか、そのはるか前から、憲法改正の方向へ世論誘導する記事や論説を書き続けてきました。
「楽しくなければテレビではない」と、愚にもつかない番組を垂れ流したフジテレビや、その路線に対する批判的な姿勢で番組作りをするのではなく、その路線を踏襲し、追いつき追い越せとばかりに、バラエティ、お笑いなどを番組編成の中心に据え、ゲームのCMが氾濫し、若者の多くは、ゲームの用意する仮想現実の世界に没頭し、こうして、意識するしないに関わらず結果として国民の愚民化を進めてきた各局。
「見るな、聞くな、考えるな」という愚民化政策の下で、国民は、日々の生活に追われ、刹那的な楽しみに埋没し、この国の中枢で何が起こっているのか考えようとしなくなっているのです。
こうした国民の多くにとっては、共謀罪に反対する人たちの語る危機感を仮に耳にしても、「この平和な日本で戦前のようなことにはならないさ」「おおげさだよ」「オオカミ少年みたい」としか映らないのでしょう。
だが、沖縄の山城議長に対する約5ヶ月に及ぶ長期勾留は、国連特別報告者からも、国際人権法上問題があるとして日本政府に速やかな是正を求められていたことが明らかになりましたが、そもそも、有刺鉄線を切断した器物損壊容疑だけで、5ヶ月もの長期にわたって勾留されるということが、この国で現実に起こっていた事実を報じたのは、ごく一部のマスコミであり、それも散発的な記事に留まるものがほとんどでしたから、この事実を国民のほとんどは、知っていないと思われます。
貴重な森が切り崩され、戦争のための基地が作られることに反対する運動を現場から排除するために周辺に張り巡らされた有刺鉄線を切断したというだけで逮捕され、運動のメンバーを「共犯」として逮捕するための自白を引きだそうと5ヶ月も留置場にぶちこみ続けた事実が現にいまこの日本であることを国民が知ったら、「共謀」しただけで逮捕される共謀罪の危険性を、リアルなものとして受け止め、そんな危険な法律を強行採決したことに黙ってはいないはずです。だが、法務委員会の強行裁決後も、国民の反応には、大きな変化は見られません。まさに「寄らしむべし、知らしむべからず」の愚民化政策の効果です。

こうしていま、この国は、急坂を転げ落ちるように、かって歩んだ破滅への道を突き進もうとしているのです。
これを食い止めるには何をすべきか。
答えは、はっきりしています。
新聞を読まない人たち、テレビも堅苦しい番組は見ようとしない人たち、このブログのような堅苦しいものは決して読もうとしない人たち、ゲームに没頭している人たち、アイドルを追いかけている人たち等々、そうした人たちに届く言葉や表現方法を見つけることしかありません。
私は、自分の無能が悔しくてなりません。いくら知恵を絞っても、そうした言葉や表現方法を見つけることが出来ないからです。それがわかれば、この記事にしても、ガラリと違う書き方と表現で書くことができるのにと思うからです。
だからといって、私は、口をつぐむつもりはありません。私にできる形で、呼ばれれば講演もするし、こうした記事もあきらめずに書き続け、声を挙げ続けていくつもりです。私の子や、孫の世代に、暗黒の日本を残すわけにはいかないからです。

共謀罪その3 ー憲法の根幹を破壊するものー

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1 すでにある盗聴・監視
前回、共謀罪その2で、私は、共謀罪の処罰要件とされている「準備行為」は、一般市民が日常生活で、日常的に繰り返している行為と、外形的には全く同じであり、従って、そうした無数にある日常行動の内から、ある特定のものを「共謀に基づく準備行為」であるとして逮捕するためには、事前に「共謀の事実」を捜査機関が把握している必要があり、そのためには、国民全体を対象とする日常的な盗聴・監視が不可欠になるということを指摘しました。
この私の「盗聴・監視が不可欠になる」と言う表現は、実は不正確です。この表現では今はまだ盗聴・監視は行われていないが、共謀罪が成立した後には、盗聴・監視が日常的に行われるようになると言っているように誤解される可能性があるからです。
実際には、すでに権力による国民に対する盗聴・監視は、広範に行われています。例えば、私が、このブログで、このような記事を書いていることも、そして、誰がいつ、このブログにアクセスしているかということも、権力には筒抜けになっているのです。
このことは、「スノーデン 日本への警告」(集英社新書 2017年4月19日刊)を読むとよく分かります。
よく知られている通り、エドワード・スノーデン氏はアメリカのNSA(国家安全保障局)に所属してインターネットの電子通信や電話を盗聴する仕事に従事している中で疑問を持つようになり、2013年6月、そうした活動に関わる機密情報をリークしたことで、現在アメリカ政府から国際手配されている人物です。
氏のリークした情報によれば、アメリカ政府は、光ファイバーに直接アクセスして膨大なインターネット通信を取得し、グーグル、フェイスブック、アップル、マイクロソフト、ヤフーなどのインターネット・サービス、ネットワーク・コミュニケーションのシステム、インフラ、衛星通信などの通信事業者に協力させて、これらの会社の設備を経由する全ての通信情報にアクセスして、その中から、自分たちが求める情報を入手しているのです。
例えば、スイカやパスモ、携帯の事業者の下には、それを所持する人物が、いつどこからどこまで移動したかの情報が全てあります。事業者に協力させることで、政府は、それらの情報を入手できます。1時代前の諜報機関は、探偵のように、対象とする人物を尾行することによって、どこにいくか、どうやってそこにいくか、誰と会っているかを把握し、その人物の交友関係、行動パターンなどを丸裸にしていました。しかし、今は、そんなことをする必要が無いのです。A氏とB氏、C氏それぞれについての前記の情報をつきあわせて、同日、同時刻に、同じ場所にこの3氏の位置情報が重なることを確認すれば、3氏が、そこで落ち合っていたこともわかります。
先日、最高裁が、警察が10年以上にわたって秘密裏に続けていた令状なしのGPS追跡捜査を違法としましたが、それ以外にも、大分県の警察が野党の選挙事務所に監視カメラを設置していることが発覚したり、インターネットに流出した公安資料によって、日本国内のイスラム教徒を秘密裏に監視していたことが明らかになっています。
Nシステムのデータにより、車の移動の軌跡も明らかになり、それと顔認証システムを組み合わせるなら、その車に誰が乗っていたのかも明らかになります。
さらに、マイナンバーシステムに集められる情報からは、国民1人1人の、家族構成、年齢、職業、収入、などの個人情報だけでなく、その人の持つお金の動きまで全て一瞬にして把握できます。
こうして入手した情報を基に、「これは」と判断する人物を対象にする通信傍受が通信傍受法によって合法的に可能となっています。
つまり、すでに、この日本でも、秘密裏の盗聴・監視が行われているのです。ですから共謀罪の成立によって、起こることは、すでにあるこうした盗聴・監視がさらに無制限になり歯止めを失うということにほかなりません。

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2 盗聴・監視は、民主主義の破壊
自分は何も悪いことをするわけでもないし、いくら盗聴・監視されても痛くもかゆくも無いと考える人がいるかもしれません。
でも、本当にそうでしょうか。スノーデン氏は、この点について「隠すことがなければ、プライバシーの権利を気にする必要がないというのは、話したいことがなければ言論の自由は必要ないというのと同じくらい危険なことです」と指摘し、「プライバシーとは、悪いことを隠すということではありません。プライバシーとは力です。プライバシーとはあなた自身のことです。プライバシーとは自分であるための権利です。」と言っています。 このことについて、もう少し考えてみましょう。
さきほど、私は、政府の監視によって「丸裸にされる」と書きました。比喩的な意味ではなく、実際に、一糸まとわぬ丸裸にされて、衆人監視の下に置かれたら、あなたはそれでも平気ですか。あなたの自尊心はそれでも守れますか。
盗聴や監視によって、自分の全て(例えば、どんな店に出入りし、どんな人とつきあい、ネットでどんなサイトにアクセスしているのか、どんな本やDVDを購入しているのかということも含め)がさらけ出されてしまうということは、これと大差の無い問題です。
「自尊心を奪われる」ということは、「個人の尊厳」を否定されることと同じです。
戦前、日本は、1935年の天皇機関説事件とそれに引き続く「国体明徴運動」によって軍部の独走に対する歯止めを完全に失ってしまいました。天皇機関説事件や国体明徴運動によって策定された「国体の本義」「臣民の道」などが、激しい憎悪とともに徹底的に批判し排撃したのは、自由主義と個人主義でした。自由主義や個人主義は、国家と離れた個人の自由を認め、国家と独立した価値を認めるものです。すなわち「個人の尊厳」を認めるものです。しかし、それは、「国民(臣民)は、天皇=国家と離れて存在するのではなく、日本固有の歴史に連なる存在として、天皇に帰一する存在である。」とする考え方からは、決して容認できないものだったのです。要するに、個人主義や自由主義などというものは、「寝ても起きてもただひたすらに天皇陛下のおためを考え、国家に奉仕する臣民」、「政府が右と言うなら、何も考えずに右と言う臣民」という理想的な在り方にとって、「百害あって一利なし」であって、万古不易の国体を損なうものだったのです。
戦前を特徴づけるものは、自由主義や個人主義、民主主義に対する思想弾圧でしたが、もう一つの特徴は、生活の隅々までの暴力による支配服従関係でした。そして、それには明白な理由があります。「暴力による支配・服従関係」の本質は、支配される者の個人の尊厳の否定だからです。学校でも、職場でも、軍隊でも暴力の嵐が吹き荒れました。そうした暴力には(正当な)理由は必要ありませんでした。むしろ正当な理由の無い暴力であり、それに黙って耐えるしかないという屈辱によって、個人の自尊心が破壊され、個人の尊厳が失われていくことに意味があったのです。その典型は軍隊の内務班です。
「歯をくいしばれ!足を踏ん張れ!」と命じられ、意味もなく、毎日のように繰り返される上官によるリンチ。上官の靴をなめさせられたり、ふんどし1つで直立不動の姿勢を取らされる屈辱等々。
こうしたことを通して、赤紙1枚で召集された兵士たちは、自尊心をこなごなにされていき、何も考えない1個の「人間兵器」にされていったのです。

「戦前と今とでは時代が違う」という人もいるでしょう。
しかし、そうでしょうか。
すでに、報道の自由は、事実上半ば以上骨抜きになっています。
かって、「国体」とは、「万古不易の天皇を戴く神国日本の世界に対する独自性と優越性」を意味しましたが、自民党の改憲草案の前文の冒頭では、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であ」る、としています。
教育の現場を見ると、日本国憲法の理想を実現するために必要な教育の在り方(国や行政の統制下におかず、国民主権の担い手にふさわしい自主的・自発的な国民を育てるための民主教育)を定めた旧教育基本法を改「正」して、国や行政の統制下に教育を置くようにしてしまい、その後、着々と行政が教育内容に介入・支配する制度改革をすすめています。国会決議で「強制しない」としたはずなのに、君が代・日の丸の強制が進行し、軍刀による敵殺傷のための技術である銃剣道が教育の場に持ち込まれ、教育勅語やヒトラーの「わが闘争」を教材として使用することは差し支えないとされるに至っています。
そして、日本礼賛のテレビ番組が増え、サッカーやオリンピックで、巨大な旭日旗が振られ、勝ち負けとメダルの数に熱狂するように国民感情が煽られ、誘致決定までは、確か国民の半数近くいたはずの東京オリンピック誘致反対の声は掻き消されています。
国民の沈黙は、ドイツでは、ナチスに反対する勢力へのナチス突撃隊の暴力があったとき、日本では、戦争に反対する人々に対する極右軍国主義者の暴力があったときに、その加害者が警察によってきちんと取り締まられずに野放しにされることから始まっています。国家の暴力が直接むきだしで登場するのではなく、国家が背後で黙認する暴力がまず登場し、「国に逆らうようなことを言ったりしたりすると、ああいう目にあう、それを警察は守ってはくれないのだ。」と、そのことを察知した国民が、恐怖から口を閉ざし、沈黙していくようになっていくのです。
これは、すでに日本で始まっています。
戦争法反対などを掲げる市民のデモに対して、ヘイト集団が襲いかかり暴力・暴行・傷害を加えたという事件がすでに何件も発生しています。しかし、その場にいたデモ規制の警察官は、こうしたヘイト集団の犯罪行為を目の当たりにしながら、誰一人逮捕もしていないのです。そういうシーンを目撃した一般の市民はどう感じるでしょうか。警察の態度に疑問と怒りを持ち問題意識に目覚める人もいるでしょう。しかし、おそらく圧倒的多数は、「こわい。」と感じ、「触らぬ神にたたりなし」とばかりに、ますます政治的な問題から目を逸らせていくのではないでしょうか。
沖縄では、すでに国家の暴力がむき出しで市民に襲いかかっています。それは、マスコミがまともに取り上げないこと、国民が無関心であることを知っているからです。

毎日のテレビから流れるお気楽でおちゃらけた番組、あるいは「ほのぼのした」CMや、「平和」で「ヒューマンな」CMなどから受ける印象によって今の世情を判断しては大きな間違いを犯すことになるのです。

1昨日、安倍首相は、2020年までに憲法9条を変えることを明確に宣言しました。9条の改憲は、歴代自民党政権にとって最大の難関でした。その最大の難関を突破する目標を具体的に日程を示して口にできるほど、安倍首相とその背後にある勢力の目からは、今の国内情勢が「機が熟している」と見えているということなのです。その「機が熟している」との認識には、すでに成し遂げた教育基本法の改悪、国家安全保障会議設置法の成立、特定秘密保護法の成立、安全保障関連法の成立があり、さらに、共謀罪が、今国会で成立するのは間違い無いとの認識も含まれているのです。