めがね橋(1)浅川:めがね橋渡り

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めがね橋というと、碓氷峠にある薄井第三橋梁や、長崎の中島川にかかるそれを想起する人も多いかと思う。碓氷峠のそれは、つづら折の峠越えの旧街道のカーブのすぐ脇に31メートルの高さでそびえ立つ4連アーチの煉瓦造りの美しい橋梁で、私がそれを最初に見たのは、もう3,40年前になる。障害をもった息子が生まれたことで、その移動の際の足としての必要性を感じて運転免許を取り、中古の小型車を10数万円で買った最初の夏、子どもたちを連れて戸隠のキャンプ場を目指して国道18号線を登っているときに、突然目の前に出現し、その圧倒的なまでの存在感と美しさに息を呑んだことを記憶している。この橋は、周囲の山々の木々に囲まれ、パステルカラーの新緑の早春、したたる緑の夏、幾重にも折り重なる錦のような紅葉の秋、そして数え切れないバリエーションの色調のブルーの陰影が白さを際立たせる雪景色の冬と、常にその表情を変えてとどまることを知らない。それでいて、そこに立つと、シンとした静寂に包まれて、まるで時が止まったかのように感じる。国の重要文化財にも指定されているこのめがね橋を見るためだけの目的で、わざわざ高速の上信越道を松井田妙義ICで降りて、旧街道を25分ほどかけてここを目指す人も少なくない。今はちょうど紅葉が始まった頃か。あるいは今年は紅葉は少し遅れているかもしれない。
長野から東京に上京して10年ほどの間は、生活の中でのふとした折に、自分がそうした人里離れた山の中にいるような感覚に包まれ、「あっ、いま枯れ葉がはらりと落ちて、しっとり湿った山の杣道に落ちた」など、わけもなく懐かしいような、物狂おしいような思いにとらわれることが年に何回かあったものだが、それから更に50年以上も経って、すっかり東京生活の垢に染まってしまった最近では、あの懐かしくもまたせつない感覚が自分を包むことはほとんどなくなってしまった。

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それはともかく、これから書くめがね橋は、こういう有名な橋ではない。おそらく全国各地にたくさんある地元の人たちだけが親しみを込めてめがね橋と呼んでいるようなそういう橋の一つである。
めがね橋の名前は、このブログで以前アップした「栗拾い」の中にも登場している。子供のころ私が住んでいたのは、長野市吉田東町。信越線(いまはしなの鉄道というらしい)長野駅を出て新潟方面に向かうと、次の駅が北長野駅、長野電鉄で長野から4つか5つ目の信濃吉田駅、この2つの駅が最寄りの駅になる。最寄りの駅といっても、北長野駅から子供の足だと2,30分、信濃吉田駅からはもう少しかかったので、果たして「最寄り」といえるかどうか。ともあれ、近くの駅はその2つだけなのだから最寄りというしかない。
この北長野の駅を出た列車は、左に辰巳池を見ながら徐々にスピードをあげていき、めがね橋をくぐると、北信濃の盆地を新潟県との県境目指してさらに速度を上げていく。めがね橋は、長野と朝日、豊野さらにその先では一茶で有名な柏原などを結ぶ古い往還とその付近でこの往還に接近している浅川を信越線の線路がくぐるために作られたアーチ型の陸橋である。めがねとは言うが、外見としては、アーチが2つ見えるわけではなく一つだけである。ただ、街道をくぐるためのアーチと浅川をくぐるためのアーチがそれぞれ別にあり、街道の下のアーチをくぐると、5、6メートルほど離れて浅川をくぐるためのアーチがあった。それで、2つのアーチということでめがね橋と呼ぶようになったのかもしれない。そこで、これからは、街道をくぐるアーチを一つ目のめがね橋、浅川をくぐるそれを2つ目のめがね橋と呼ぶこととする。
今から思うと列車の上を浅川が流れていたのだから、浅川は周囲の平地より相当高い位置を流れていたことになる。ちなみに、この浅川は、後に信州大学付属長野小学校の子たちが、「汚れ川」に挑んだことで知られる浅川と同じ川で、子どもたちが取り組んだのは、私が遊んでいた浅川よりもずっと上流の長野市内近くになるが、私が子供の頃は、フナやめだかや鮠(ハヤ)などが住み、夏はプール代わりに遊ぶこともできた小川だった。
街道を通って一つ目のめがね橋を渡るとすぐ右手に下の線路の方に降りていく土手道のような細い通路がある。そこを降りて線路沿いの道を2つ目のめがね橋の下をくぐって、向こう側に出ることが出来、そこからまた土手をあがると浅川の土手の上に出た。
浅川土手の上に立つと、目の前には、田やリンゴ畑、桑畑などが広がり、遠くには、ひときわ高い飯縄山から東に、これも栗拾いで登場した「かりたさん」や白岩、さらに黒姫などの山々が連なっている。手前のりんご畑の中にはため池も見えている。

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さて、ここまでに登場した辰巳池、めがね橋、浅川と浅川土手、その向こうのため池周辺は、わたしたち子どもの絶好の遊び場だった。もっとも、当時の子どもたちにとっては、遊びの8割以上は外遊びで、従ってまた、住宅地の中の空き地や通路はいうに及ばず、住宅地を囲む畑や田んぼなど周りはすべて遊び場だったと言っても過言ではなかった。
浅川、特に夏の浅川は、遊びの宝庫だった。とんぼやセミとりに出かけたときでも、浅川の岸辺に立つと、水の中の魚影や、澄んだ水の魅力に抗し切れず、腰にぶら下げていた手ぬぐいとベルトを即製のふんどし代わりにして川の中での水遊びに興じたものだ。フナや鮠(ハヤ)を捕まえてどうしたのか、記憶は定かではないが、家にあった金魚鉢に入れたのだったか。当時住んでいた住宅は私が住んでいた当時は長野市内の大きな書店だった西沢書店の所有するものだったが、元は2戸建一棟の県営住宅で、今はほとんど見かけなくなったが、2戸建一棟で周囲に簡単な家庭菜園を作ったりすることができる程度の10数坪ほどの庭を持つ都営住宅と同じような作りの住宅だった。その庭の片隅を堀り、コンクリートを自分で塗りつけて小さな池を作り、そこにごつごつして穴がたくさんあいた火山岩を置いて金魚や小魚を飼うことが当時流行っていた。私の家の庭にはそんなものはなかったが、遊び友達の昭夫ちゃんちの庭にはそういう池があったから、あるいは捕まえたフナや鮠をそこに運んで入れたのだったかもしれない。まあ、「釣った魚に餌はやらない」ではないけど、蝉やトンボと同じで、捕まえた後のことはほとんど記憶にないのだから、捕まえることじたいに、興奮し楽しんでいたというのが本当のところだろう。岸辺の水草の中を探っている手に伝わってきたビクビクッという魚の感触は、今でも「いたっ!」という興奮の記憶と共に鮮明に覚えているのだから。逃げないように、もう一方の手を添え、感触を伝えてくる水草ごとしっかりと握りながら、水から岸辺にあげていく。とはいえ、余りきつく握り過ぎるとせっかくの魚がつぶれてしまうから、そこには微妙な加減が必要で、そのことを私たちは、何匹もの魚を逃がしてしまったり、つぶしてしまったりしながら覚えていったのだ。
あるいはまた、友達と一緒に、河原の石を積んで、流れをせき止め、その堤防に手ぬぐいを網代わりに張って、上流から魚を追い込んで捕まえたりもした。魚を捕まえるのに飽きると、川の堰に出来ている深みで泳いだり、岸辺の笹の葉で作った笹舟を浮かべて競争したり、遊びの種は尽きないのだ。
ところで、2つ目のめがね橋は、信越線の線路の上を浅川を通すために作られているとさきほど書いた。つまり、めがね橋の上流や、下流は、通常の土手の中を流れている浅川だが、ちょうど線路の上にかかる少し手前から、線路の上から抜けて少し先までの20数メートルほどは、コンクリート製の四角い水路の中を流れることとなるのだ。ということは、浅川の両岸の土手とその天端の歩行路が、線路の上を流れる部分には無いこととなる。上流の歩行路と下流の歩行路をつなぐのは、線路の上のコンクリート製の水路の壁で、その幅がどの程度のものだったか、正確なことはわからないが、両足をそろえて立つのがやっとという程度だったという記憶がある。そういう細く狭いコンクリートの手すりも何もない裸の「通路」が、下の線路から10数メートルの高さの位置にあったのだ。通路と言っても、客観的には通路として作られたものなどではなく、むしろ、作った大人たちは、人がその上を歩くことを予想もしていなかったと思われる。
そこを渡る。いつからか高所恐怖症になってしまった今の私には考えられないことだが、当時は、そこを渡ることが、子ども社会の通過儀礼のようになっていたと記憶している。当時の子どもたちにとって、避けて通れない遊びの一つだったのだ。
最初にそこを渡ったのがいつだったか、これも記憶は定かではない。土手の切れる少し前から、土手の上の通路の真ん中に半ば土をかぶった2,30センチ幅のコンクリートが出てくる。そこを辿り、いよいよ線路の上に出るときには、その2,30センチ幅のコンクリートのほかには何もない。下を見ると一方には浅川とその草の生えた岸辺があるが、もう一方は10数メートル下の線路まで何もない。線路側に落ちたら確実に命を落とす。繰り返すが、体を支える手すりもなにも無いのだ。最初のときは、結局立って渡ることが、どうしても出来ず、20数メートルを這って渡ったと記憶している。
私の高所恐怖症はかなり深刻で、家の電球を交換するための脚立や、山荘の3階ロフトにあがるためのハシゴと言ったものでも、足がすくむ感じがするし、テレビや映画などで高いビルの屋上から下を俯瞰するような映像が出てくるとお尻のあたりがムズムズするといったていたらくであるから、今こうして当時のめがね橋の上のコンクリートのヘリの下に線路が見えたときの様子を思い出すだけでもお尻がムズムズしている。そんな私が、しかもまだ小学生低学年でしかなかったのに、どうして、たとえ這ってであっても、あんなところを渡ることが出来たのか今思うとゾッとする。しかも、何回目かには、立ったまま20数メートルを渡りきったという記憶もあるのだ。また、当時は信越線を走る列車は蒸気機関車であったから、おそるおそるめがね橋渡りをしている最中に、ちょうどその真下を蒸気機関車が通過していくということもあった。蒸気機関車というのは、前方にトンネルがあると、乗客に「これからトンネルだよ。窓を閉めないとススと煙が入ってくるよ」と教えるために、ボーッ、ボーッと汽笛を鳴らす。だから、北長野駅を出た新潟方面行きの列車は、めがね橋の手前で、ボーッ、ボーッと汽笛を鳴らすのだ。おそるおそるめがね橋渡りをしている最中にこの汽笛が聞こえてくると、這っていた体をさらにコンクリに貼り付けるようにし、顔を浅川側に向けて、ドキドキしながら列車の通過を待つのだ。一度、そうしないで、列車が来る前に早く渡りきってしまおうとしていた時に、下を通過する列車のはき出すモウモウとした煙をもろに顔に浴びせられたことがあり、それからの知恵だ。

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不思議なのは、当時、辰巳池など付近のため池で、子どもが命を落としたということは毎年のように耳にし、夏休みの前などには学校からもため池で遊ばないようにという注意がなされていたが、このめがね橋渡りに失敗して線路に転落して命を落としたという話も、それにまつわる注意を学校から聞いたという記憶もついぞないことだ。
それにしてもいまにして思う。私と兄を育て上げるために、毎日のように残業をしたり休日出勤をしたりしていた母が、もしこのめがね橋渡りのことを知ったら、いったいどんな思いをしたことかと。知られなければ何をしてもよいというわけではないが、知られなくてよかったと今更のように思うのだ。

台風19号

「どうしよう。ねぇ。あなた。どうしよう。」
答えを求めているわけではない。答えを求めても夫にも答えなどあるはずがない。それでも、こういわずにはいられない。
「あぁ、うん。」
と言ったきり、ただ呆然とするばかりの夫。
目の前には悪夢としか思えない光景が広がっている。
2人で力を合わせて昨年新築したばかりの家も、収穫を間近に控えていたハウスの野菜も、赤く色づいていたリンゴ畑も、全てが泥の海に埋まっている。うちだけではない。濁流に流されて壁がなくなり大きく傾いた家、どこからか流されてきた家具や障子、誰かの鞄やバッグなどがあたりに散乱している。中にはどこから流されてきたのか近所ではみかけたことのない様子の家までが…。それら、全てが、多かれ少なかれ、破壊されて原型をとどめず、泥の海に埋まっている。
かって3月11日の東日本大震災の津波被害の様子をテレビで見たとき、そのあまりのすさまじい有様に、それが現実に起こっていることなのだという実感を持つことがなかなかできず、その後の様々な報道によって、ようやくあれは紛れもない現実だったのだという実感を持てるようになった。それでもまだ、心の片隅では、それを他人事(ひとごと)と感じている自分がいた。
だが、いま目の前にあるのは、ひとごとでも、映画のつくりものでもない、紛れもない自分に、自分たちに襲いかかってきた現実なのだ。
全身から力が抜ける。
すぐ隣で座り込んだまま「どうしよう。」「どうしよう。」とつぶやき続ける妻の声が遠くに聞こえる。
どこから手をつければ良いのか。いや、どうすれば、気力がでてくるのか。
これからだった野菜とリンゴ、米の収穫による収入で、新築した家の建築費のために借り入れたローン(残金1,600万円ほど)の返済を続け、ハウスの補修費用、スプリンクラーの修繕費、農作業用の軽トラの車検費、肥料代、種苗費用などをまかない、何とか年を越せると思っていた計画は根底から崩れてしまった。
ゼロからの出発という言葉があるけど、ゼロからの出発ではないのだ。使い物にならなくなった家具・家財や農機具、ハウスなどに加え、壊れて建て替えるしかなくなってしまった家の南側半分を取り壊してそこに新しく南半分の建物を増築できる状態にして、初めて前への一歩を踏み出せるのだ。そこからがゼロからの出発なのだ。そこまではこの被災で空いてしまった巨大な穴(マイナス)を埋めるための気の遠くなるような作業なのだ。 呆然としながらも、身体だけは、片付けの作業を始めている。周りの家々でも、同じように、人々がのろのろと片付けを始めている。どれをどう片付けてどうするなどというはっきりした目的などありはしない。ただ、何かしていないといられないのだ。
2日目からボランティアの人たちが入ってきて、片付けを手助けしてくれるようになった。ボランティアたちの手によって、これまで「いつ終わるのか」と思っていた室内に散乱していた膨大な家具・家財や土砂・流れ込んだ廃材・木の根等々が、みるみるうちに運び出されていった。ありがたかった。
縁もゆかりもない人たちが、こうして泥まみれになって私たちのために力を尽くしてくれている。父親が病いで急死したことから慣れない農業を継いだ2人は、農業を守ることだけで精一杯で、これまで周りを見る余裕もなく、自分のことしか考えていないと言われても、何も言い返せない毎日を送ってきた。それだけに、こんな人たちがいるということが信じがたい感じがするのだった。
そうした姿を見ているうちに、少しずつ、頑張ろうという気持ちがわいてくるのだった。

「みなさん。御疲れさまです。一休みして一服しましょう。」
運び出した家具の間のスペースにシートを敷いて、ボランティアたちと車座になって座る。少し離れた場所で、タバコを吸っている青年。朝こちらに向かう時に駅の売店で買ったのか、新聞を開いている青年。疲れたのか、シートに長々と仰向けで寝転んでいるものもいる。
「本当にありがとう。どうしようかと思って、気力もなにも無くしかけていたけど、みなさんがきてくれて、おかげで、なんか少しずつやる気が出てきた気がします。」
「いや、僕らにできるのはこんなこと位で。本当に大変なのは、これからなんでしょう?」 「壊れた家を直したり、こんなになってしまったハウスを建て替えて、土から作り直して苗を植え直したり…リンゴ畑だって、これを元通りにするには、ほんと、どれほど大変なことか。」
「そうね。お金だっていくらあっても足りないだろうけど、アルバイト生活のわたしたちには、お金の支援はもうしわけないけどできないんです。だからせめて、こうやってお手伝いさせて頂いているんです。」
「それにしても、建物が全壊した人たちへの国の支援金が300万円だなんて、つめたいよね」
「それでも、私たちには、その300万円でもあると無いとでは大違いで、本当に助かるんですよ。」
「そうなんだ。よし!私たちにはお金は無いけど、帰ったら、周りの人たちに、ここの様子をきちんと伝えて義援金カンパを呼びかけようよ。」
「そうだね。」
そんな話をしていると
「なんだこれは!?」と、突然大声が響いた。さきほど新聞を開いていた青年だ。青年は、黙って、みんなに新聞の中のある記事を指し示すのだ。

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ついさきほど300万円の話をしたばかりのみんなは、唖然とするしかなかった。