年金報道の違和感

20190523_190230
ばば:ねえ。これって、聞いてて、どうにも違うんじゃない?って感じるんだけど。
じじ:何の話?
ばば:ほら、老後2000万円足りないっていう話。
じじ:ああ、年金だけじゃ、不足するから老後の資金としてそれ以外に2000万円必要だっていうあれだね。
ばば:そう。
じじ:それのどこに、違うって感じるって?
ばば:あのね、このニュースを見てると、話の前提として、年金の額が1ヶ月21万円なんて言ってるじゃない?
じじ:うん、わかった。そこだね。
ばば:1ヶ月21万円も年金を受け取れる人なんて、一体どれだけいるのかと思うのよね。
じじ:そうだよね。ばばの知っているTさんも、Sさんも、Oさんも、みんな、年金生活だけど、受け取っている年金はせいぜい13~14万円だよね。
僕が、遺言書を作ったり、老後の生活のために成年後見の相談を受けたり仕事で会うお年寄りたちも、そのほとんどの人の年金の額は14万円前後だよね。ちょっと多いなと思う人でも17万円とか18万円だよ。
ばば:でしょう?じじの年金なんて、介護保険料を差し引かれたら手取り4万円にもならないのよ。
じじ:こういう話は、いつもそうなんだけど、前提となる統計の「平均」として出される数字には、気をつけなければならないんだよね。こういうニュースで「平均的家族」って言うけど、実際には、そこで描かれる「平均的家族」通りの生活をしている人なんて、おそらく1人もいない。大体、ここでいう21万円というのは、国民年金だけの人も含めた平均の額なんだから、国民年金しか受け取っていない人からしたら、まるで自分たちとかけ離れた「平均的家族」でしかないよね。
ばば:えっ!ちょっと待って。満額でも6万5000円の国民年金だけの人も含めての平均なの?
じじ:そうなんだけど、この報告書では、国民年金の平均受給額を5万5千円としているんだ。で、厚生年金の平均額を合算して21万円弱というわけなんだ。「平均」に気をつける必要があるというのは、そこなんだよ。
ばば:どういうこと?
じじ:まず、国民年金平均5万5千円というけど、ばばが言うように、僕の年金は、それより2万円近くも少ないよね。平均が5万5千円というんだから、平均以下の給付額のそういう人がたくさんいるということだよね。それに納付月数が少なくて無年金の人もいるよね。
ばば:そうね。
じじ:それに、アベが「働き方改革」なんて言う前から、自民党は、「労働市場の自由化」なんていって働き方を大きく変えてきて、その結果、格差が拡大し、パート・臨時・派遣などの非正規雇用が膨大に増えてしまっている。そういう人の多くは、厚生年金が無くて、国民年金だけなんだけど、その国民年金も、仕事に就けなかった時期には保険料を支払うことも出来なかったから、満額受給にはほど遠い。それに、そういう境遇で生活してきているから、2000万円の貯蓄なんて、とても、とても、夢のまた夢、という状態なんだよ。金融広報委員会がまとめた統計によれば、1987年には貯蓄ゼロの世帯は3%だったのに、2017年には23%に増えているというんだ。
つまり、「平均」で議論されても、そういう人たちの問題は、何一つ解決しないんだよ。本当に国民に寄り添う姿勢があるなら、国民年金だけの人はどうなるか、どうしたらよいのか、無年金の人はどうなるか、どうしたら良いのか、厚生年金のある人についても、その支給額をある程度に分けて、それぞれについてどうなるのか、どうしたら良いのかを、きちんと議論して提言すべきなんだよ。
ばばが違和感を感じるのも、「平均」とばばの実感とがかけ離れているからじゃないか。
ばば:確かにそうね。でも、そういう風に、きめ細かく分けて考えるって大変なことじゃないの。
じじ:たしかに、大変だと思うよ。でもそういうことをちゃんとやるのが政治家の仕事じゃないのかな。少なくとも、自分が受け取っている年金の額を「秘書にまかせているから知らない」と言い放ち、2000万円不足という報告書を出させておきながら、自分は、1年で2000万円以上ものお金を飲み食いに使っているというのじゃあ、話にならないよね。
1ヶ月年金21万円の「平均家族」なんて言われても、どこにそんな人がいるんだと思うばかりで、自分のこととはとても思えないけど、「2000万円足りない」ということだけは、突き刺さってくるから、みんな騒いでいる。
でも、この話の本当の怖さは、本当は、「平均」で議論しなければ、国民1人1人にとって将来足りなくなるのは2000万円ではとても収まらなくて、もっと、多額になるということなんだよ。
つまり、本当は、もう今の日本の政治は、このまま行ったら、年金だけでなく、国家財政の全てが破綻することへ向かってまっしぐらなのだという真実のかけらをこの報告書は、見せてしまったということなんだと思うよ。
そういう「不都合な真実」を正直に率直に国民の前に提示して、どうやって、そういう危機を乗り越えるか、国民と一緒に考えるのが本当の政治家だよね。
なのに、アベ首相がやっていることは、そういう重要な事実を隠し、今回のようにその一端が漏れ出すと、打ち消しにやっきとなり、他方で、人気取りのためのバラマキ外交で海外に70兆とも90兆とも言われる大金をばらまいたり、アメリカのご機嫌取りのために1機何百億円もする戦闘機を大量に買ったり、ハワイやグアムを守るためのイージスアショアに4000億円以上もかけたりしている。国民のことより自分の人気取りや、選挙対策や、自分の権力の延命しか考えていない。
ばば:そうね。あれだけ、お金を世界中にばらまいて人気取りに必死になっているのに、国連総会で、首相が演説に立った途端に、サーと各国の代表が議場を退席して、ガラーンとした中で演説してたあの姿は、ほんと、情けなかったわね。そして、そういう事実を「議場を写さない映像」で隠して、「われらが首相は、国連総会で演説した。すごいんだぞ」と言わんばかりの報道の仕方をしたNHKの姿もほんっと情けなかったわよね。

広告

俺の人生 何なんだ。

IMG_2616

息子を殺害した動機に関し、元事務次官が、「川崎の事件と同じようにならないように考えた。」と供述していると報道されている。更に、別の報道では、別居していた息子が実家に戻った後「俺の人生、何なんだ」と父親らに暴力を振るっていたとされている。
前回の記事で、私は、「死ぬなら1人で死ね」という発言を批判した。
「死ぬなら1人で死ね」という発言をする人たちの立場は、「川崎の事件と同じようにならないように考え」て息子を殺した父親は、「良くやった」ということになり、「俺の人生、何なんだ」という息子の痛切な問いへの答えは、「お前の人生は、死ぬためにあるんだ。何か意味があるなんて思うな」ということになる。
このように書くと、それは極論だと言うかも知れない。自分たちの言いたいことを歪曲していると言うかも知れない。
だが、本当に極論なのか、歪曲なのか良く考えて見る必要がある。匿名の影に隠れた無責任な発言のツイッターなどだから、真面目に取り上げる必要もないのかも知れないが、「1人で死ね」肯定論の人たちは、川崎の事件の犯人や、この事件の殺された息子を、「ボケ」「カス」「クズ」などと口汚く罵っている。松本人志は、「不良品」と決め付けている。つまり、「1人で死ね」を肯定する人たちの考え方の中には、そんなボケ、カス、クズ、不良品は、生きている価値は無いという思想があると、私には思えるのだ。
これに対しては、「そうではない。自分達は、決して、そんなことを言うつもりはない。ただ、何の罪も無い幼い子どもたちを巻き添えにすることは、絶対に許せないと言っているだけだ」という声が聞こえる。それは、その通りだろう。子ども達を巻き添えにして良いなどとは、「1人で死ね」発言を批判する人たちも決して考えていない。
そうすると「1人で死ね」発言肯定派の人たちと、否定派の人たちとの間にある違いは、何なのか。
その答えのヒントは、殺された息子の「俺の人生 何なんだ」という発言に隠されていると私は思う。この言葉から、私は、自分の人生の意味を求める痛切な思いを感じるのだ。
俺は生きていて良いのか
俺が生きていることにどんな意味があるのか
俺の人生は、何で、こんなに虚しく、寂しく、つまらないのか
生まれてきて、何にもいいことがないまま、50数年経ってしまった。この先だって、何があるというのか
俺だって、本当は、こんなふうにはなりたくはなかった。なのに、なんで、こんなふうになってしまったんだ。
等々。
こうした思いがグチャグチャに混じった言葉が、「俺の人生 何なんだ」ではなかったろうか。
そこにあるのは、この息子の、自身の尊厳への自覚の欠如にほかならない。
ツイッターで息子は「俺の父親と話しをするなんて、1億年早いわ、ボケ」といった書込をしていたという。でありながら、家では、その父親に、暴力を振るっていた。東大を出てエリート官僚の道を全うした父親の存在を、自分の存在価値であるかのように思う心。だが、現実には、父親と息子は別人格であり、従って、少年時代の彼が、父親の権威をひけらかせばひけらかすほど、周囲からは、そうした少年へのいじめが激しくなる。こうして、父親と自分を同一視して、そこに自分の存在価値を見出していた彼は、周囲の者から「お前は、父親とは違う存在だ」という事実を、いじめという形で、つきつけられる。ならば、父親とは違う、自分なりの価値をみつけていけば良いのに、「東大を出て、エリート官僚になる」ということにしか価値を見いだせない彼は、父親のように東大に入ることも出来ず、いわゆる出世コースにも乗れなかったことで、自分を、「1億年早いわ、ボケ」と罵られるような卑賤で、無価値な存在と感じてしまったのではないか。父親に対してよりも、母親に対して、より激しく暴力が向かっていたのは、母親の方が弱いからということもあろうが、それよりも、自分をそんな劣った人間として生んだのは母親のせいだという恨みのような思いがあったからではないか。周りに対し、エリートである父親の「威を借りる」ような言動を重ねてきたからこそ、その「威」が、自分には、何も無いという現実を突きつけられたとき「引きこもる」という選択しか残されていなかったのではないだろうか。
これを批判し、あるいは非難することは容易だ。だが、「東大を出て、エリート官僚になること」こそが、人生で最も大切なことであり、それ以外の人生には、意味は無いという価値観しか持っていない者には、批判も非難も意味をなさない。
逆説的に聞こえるかも知れないが、要するに、この息子が、自分でも、そうとは自覚せずに、激しく糾弾しているのは、全ての個人には、それぞれ固有の価値(尊厳)があるという憲法の最も重要な思想を否定し、あるいは、ないがしろにし、あるいは、言葉では認めながら実際には、子どもを教師の思い描く「型」にはめようとする教育が罷り通ったり、平気で、「勝ち組、負け組」と人を振り分けたり、人に「落ちこぼれ」というレッテルを貼ったり、学歴主義で人の採否を決めたり、するなどして、個人の尊厳の否定につながることをしているこの国の人々全てなのだ。
そう考えれば、川崎事件の犯人を「不良品」と決め付けた発言は、まさに、全ての個人には他の誰にも代えがたい尊厳が備わっているのだという思想の正面からの否定であることに気付くであろう。
つまり、「1人で死ね」肯定の人たちと、否定の人たちとの間にある、決定的な違いは、個人の尊厳を徹底的に大切にしようとするかどうかの違いなのだ。

それにしても不思議だと思う。難しい憲法の本や、教育の本、あるいは哲学の本を読まなくても、今から38年前に、「窓際のトットちゃん」(黒柳徹子)は、累計800万部が売れている。あるいは、同じ時期にフジテレビで放映された「北の国から」は、平均視聴率が14.8%、最終回は20%を超えている。「トットちゃん」も、「北の国」も、その主要なテーマは、正に、個人の尊厳にほかならない。
例えば、北の国の中に、こんなシーンがあった。北海道での生活がある程度経った後で、純が、かって通っていた学校の尊敬していた教師と会って話すシーンである。教師は、みんなが既に受験のための学習に励んでいると言い、純にも、受験勉強に遅れないようにしなければだめだぞと言う。その言葉を聞いた時、純は、「何てつまらないことを言うのだろう」と感じ、かって、その教師をどうしてあんなに尊敬していたのかと思うのだ。
トットちゃんの中には、トットちゃんに「本当はいい子なんだよ」とトットちゃんに声をかける教師の姿が描かれるが、その教師は、こういうのだ。「全ての子には平等にチャンスがある。身体が不自由だからこそ、独創的な創意を生むこともある。それを尊ぶことがこの学校の理念なのです。」
あれだけ多くの国民が、こういう「トットちゃん」を読み、こういう「北の国」を見ていたのに、何故、いまだに、この国では、個人の尊厳が、日常生活の中に定着していないのだろう。何故、ヘイトスピーチが蔓延するのだろう。何故、弱い者いじめでしかない「若手芸人をいじめて喜ぶ番組」がもてはやされるのだろう。何故、こんなにも「生きにくい」と感じて毎日を過ごす人が増えてしまったのだろう。