我が息子

 4日前、息子が45年の生涯を終えた。

 大血管転移、単心室、肺動脈欠損、動脈管開存、それが息子が抱えてきた障害の名前。45年の息子の生涯はそれとの闘いだった。何十回手術を受けたことか。その度に沢山の組合の仲間から新鮮血輸血のための献血に支えられてきた。25才まで生きられるかどうかと言われたけど、ここまで頑張ってきた。9月29日の最後の電話でこれから受ける手術の中身を詳しく私に話してくれたけど、私にはそれは、今度は駄目なようだと言っている様に思えるほど厳しい内容だった。そんな僅か数パーセントの勝算しかない手術に勇敢に立ち向かって半月、最後は敗血症、脳内出血、不整脈、エクモにもつながれて力尽きてしまった。あの電話の時まともな言葉も掛けることができなかった私は最後の時も羽田から携帯越しに、「もう十分頑張ったよ。偉かったね。もう休んで良いんだよ」と声を掛けるしかできなかった。

 明後日の火葬まで時間があいて昨日ホテルの前の川の向こう側にある公園まで1人で歩きながら考えた。息子がその生涯でどんなことをかんがえてきたのか。研究半ばで妻と子を残して逝かなければならないことの無念はどれほどのものだったか、最後の電話で本当に伝えたかった事は何だったのか、この沖縄の地で今私がしている様に自分の死期を悟って一人歩くとき何を感じ何を考えていたのだろうか、と。強烈な寂寥感が胸をしめつけた。でも、息子は立派にやりとげたのだ。スクスクと育っている孫と最後まで息子と闘いぬいてくれた細君という宝物を残してくれたのだ。

「人新世の資本論を読む」(6)

 
グリーン・ニューディール  緑のケインズ主義

 この連載の5回目で、私は、「環境によいことを毎日の生活の中に何かとりいれていこう」とか「SDGsを応援していこう」というような行動は「浅薄で、「的外れな行動」であって、そうした行動によっては、気候変動を食い止めることは出来ないと書きました。
 SDGsは、今、国連、世界銀行、IMF、OECD(経済協力開発機構)などが熱心に推進している気候変動対策で、テレビをつけても毎日、この言葉を聞かないことがありません。自社の製品や事業がSDGsであるとうたうCMも少なくありません。学校でも、SDGsのための取り組みが様々行われています。
 そうした取り組みの一つとしてグリーン・ニューディールと呼ばれるものがあります。
 再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資を行うことで、安定した高賃金の雇用を作り出し、それによって有効需要を増やして景気を刺激する。好景気がさらなる投資を生み、持続可能な緑の経済への移行を加速させることになるという考え方です。
 ひとくちにグリーン・ニューディールと言っても中身には、色々差がありますがバーニー・サンダース、ジェレミー・コービン、ヤニス・ヴァルファキスらもその公約に掲げているのです。
 だが、それではダメなんだと著者は言っているのです。それらは結局のところ「緑の経済成長」という「現実逃避」でしかないというのです。
 おどろくではありませんか。
 サンチョパンサよ!ついてこい!国連だろうと、世銀だろうと、IMFだろうと恐れるものか。束になってかかってこい!
 というわけです。
 著者のこの論述は、グレタさんの国連でのあの全世界の政府や指導者を糾弾した演説と共振しています。

  多くの人たちが苦しんでいます。多くの人たちが死んでいます。全ての生態系が破壊されています。私たちは大量絶滅の始まりにいます。
  それなのにあなたたちが話しているのは、お金のことと、経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!

 
 著者の斎藤幸平氏やグレタ・トゥーンベリ氏の地球と人類の危機に対する認識と、各国政府や、国連などを含む世界の指導者たちの認識との間の断絶は、かくも深いのです。
 それは、首相になった岸田氏とて例外ではありません。まるで、それで全てが解決するかのように所信表明演説で、ウッドペッカーさながらに繰り返した 「新しい資本主義」、「新しい資本主義」、「新しい資本主義」
 「成長と分配」、「成長と分配」、「成長と分配」…
というキーワードそれ自体がそのことを示しているのです。
 「新しい資本主義」による「成長と分配」という話は、要するに「経済発展がいつまでも続くというおとぎ話」に他ならないからです。

 新自由主義は、資本主義の最後の延命策なのです。新自由主義のあとに、「新しい資本主義」なる資本主義の延命策は無いのです。
 そのことをサクッと説明します。もとより経済学者でもない私が、詳しい説明などできませんし。
 これまで、この連載で書いてきたことは、資本主義は、「矛盾の転嫁・外部化」「負担の転嫁・外部化」によって成長を維持し続けてきたということです。
 しかし、転嫁・外部化による際限の無い拡大・成長は、恐慌を繰り返すこととなり、1929年には、大恐慌を惹き起こします。これを機にルーズベルトが、採ったニューディール政策をどう評価するかは、色々議論があるようですが、この連載の文脈で捉えると、それまで無制限かつ際限が無かった「矛盾と負担の転嫁・外部化」に制限を加えることで、資本主義の暴走に一定の歯止めをかけ、そうすることで、暴走の結果である恐慌の発生を一定に制御する政策ということができるかと思います。
 しかし、それは、「矛盾の転嫁・外部化」による経済成長を生命線とする資本にとっては、そのまま、これを受け入れるわけにはいかず、その結果「矛盾の転嫁・外部化」は、いきおい自国内でのそれから外へ外へと向かっていくことになりました。自国内の労働者への分配が改善(待遇改善)されたのは、正にこのようにして、低開発国、未開発国の資源と低賃金・無権利労働者から収奪することによったのです。資本は、自国内では「紳士的に」ふるまい、低開発国・未開発国・植民地では、誰はばかること無く貪欲で凶暴なふるまいをしたのです。
 しかし、それは、やがて行き詰まります。植民地の独立、低開発国・未開発国での労働者・市民の自覚と権利意識の進展、それらの国々での資源の減少と価格高騰などによって、資本は、それまでのように誰はばかること無く貪欲で凶暴なふるまいを続けることが出来なくなっていきます。
 こうしてニューディール的政策、国家独占資本主義の行き方でも行き詰まった資本が、そこからの延命策として取り上げたのが新自由主義なのです。
 (新)自由主義とあるように、この政策の特徴は、それまで国によってかけられていた様々な制限・制約をなくし(規制緩和し)、資本が、かってのように自由に振る舞えるようにする(自由競争市場主義化)ことにあります。その結果、資本は、行き詰まりつつあった外での転嫁・外部化に加えて、規制が緩和され、自由に振る舞えるようになった国内で転嫁・外部化をはかることが可能になりました。この新自由主義は、折しも冷戦が終結し、旧ソビエト圏に属していた国々が、いわば手つかずの状態で、資本主義各国の前に投げ出されたということもあって、旧ソビエト圏の資源と人からの収奪によって、はじめのうち、資本主義の息を吹き返らせました。ただ、それは、短期的なものにすぎませんでした。むしろ、その後は、新自由主義の前記のような政策に潜む本質的な矛盾が、世界中で表面化していったのです。
 すなわち、労働者の正規雇用から非正規雇用・不安定雇用への転換と、それによる「中間層」の消滅と格差の拡大です。その結果、世界中でポピュリズムの政治勢力が台頭するなど政治的不安定が進行しているのが、今の状況なのです。日本もその例外では無いのです。
 ですから、高度成長期の再現を夢見ても、外での資源と人からの収奪の余地が年々減少し、それに代えて、国内の労働者からの収奪を強化するしかなくなっているのですからあの時期に形成された「分厚い中間層」を再び形成しようにも、もはやそれを形成する基盤を失っているのです。

 要するに資本主義は、限界に来ているのです。
 そのことは、2021年4月9日にIMFが公表した各国のGDP実質成長率を見れば明らかです。
 岸田首相の「新しい資本主義」や「分配と成長」が、何の実態も根拠も伴わない空文句でしかないことは、はっきりしているのです。

 気候変動対策について、考えるためには、世界の資本主義が、このような状態(すなわち、末期的な状態)に陥り、そこから抜けだすためには、収奪の対象とする新たな資源と人を見つけるしかないのだということを、はっきりと認識することが必要なのです。
 この本の結論を先取りして言葉を変えていうなら、それは、資本主義はもはやあてには出来ないということをはっきりと認識し、そこから検討をスタートする必要があるということにほかなりません。