はて、さて、なんと!

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1 いよいよポチの恥辱の旅
ぼくは、ほかのみんなのように、あなたを非難したり批判したり決してしません。
だって、あなたは素晴らしいもの。
僕がやりたくても、さすがに二の足を踏むようなことでも簡単にやってのけてくれるし。
あなたのために、こんなにたくさんお土産をもってきました。
これがあれば、あなたも、ずいぶんみんなにいい顔できるでしょう?
いえ、いえ、ご心配なさらないでください。どうせ、私のお金ではないんですから。必要とあれば、ほかの費用をちょっと締めればいいんですから。どうせあいつらは、まともに働きもせずに、ぼくらのおこぼれを待っているだけなんだから、おこぼれが少しくらい減ったって、文句の言える筋合いなどないんですよ。
その代わり、一つだけ御願いを聞いて下さい。
このあと、僕は、帰ったら、あなたのしもべの僕が「対等の友」なんて言うのは畏れ多いけど、みんなに、あなたとは対等の友としての深い信頼関係を確認したといいます。僕の国のやつら向けのこととして、どうかゆるして下さい。

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2 すごいボランティア
わずか2日で1,000万円!
俺もやりてぇ。
直ぐにも仕事をやめて、毎日ボランティア三昧だあ。

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3 言葉を変えれば事実は変わる?!
「憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」
こう、のたまわった大臣がいる。
直接事実を目撃した、軍事の専門家(自衛隊)が「戦闘」と認めていても、「武力衝突」と言い換えれば、「戦闘」は無かったことになる?
懐かしいなぁ。
対中国戦争を「満州事変」「盧溝橋事件」「柳条湖事件」「シナ事変」…
敗退を「転進」
全滅を「玉砕」
嗚呼!亡霊が息を吹き返した。

不気味な「日本礼賛」

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思わぬ「休業」があったため、休業再開後の記事は、休業中の出来事についての雑感となってしまいましたが、本来は、休業前の最後の記事「方丈記私記 追記」の続きを書く予定でしたので、本日は、そこに戻ります。
「休業」前の「方丈記私記ー追記」の最後の部分で、方丈記の書かれた時代の王朝文化(本歌取りや幽玄など)は、飢饉や大火や、疫病などに苦しむ庶民の現実を「我が事にあらず」とすることの上に成り立っていたものであるとした上で、これは700年前の昔のことではないとして、「1945年のあの空襲と飢餓にみちて、死体がそこらにごろごろしていた頃ほどにも、神州不滅だとか、皇国ナントヤラとかという、真剣であると同時に莫迦莫迦しい話ばかりが印刷されていた時期は、他になかった。戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、他に類例がなかった。論者たちは、私たちを脅迫するかのようなことばづかいで、日本の伝統のみやびを強制したものであった。危機の時代にあって、人が嚇と両眼を見開いて生者の現実を直視し、未来の展望に思いをこらすべき時に、神話に頼り、みやびやかで光栄ある伝統のことなどを言い出すのは、むしろ犯罪に近かった。(中略)この本歌取り文化というものは、連綿としてわれわれの文化と思想の歴史のなかに生き続けた。」という堀田前衛氏の指摘を引用した上で、自民党憲法改正草案の前文は、こうした歴史と文化をことさらに取り上げ、天皇を戴く国家を守り継承するためにこそ日本国民が存在するという思想を臆面も無く表明しているという事実を指摘しました。彼らにとっては、国民の命と自由・権利を守るために国家が存在するのではないのです。

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だが、生きている者の現実が無視されて、「固有の文化」「伝統の文化」がヒステリックに叫ばれるのは、ひとり日本だけのことではないでしょう。例えば、ドイツ・ナチスが「世界に冠たるドイツ」を連呼し、ベルリン・オリンピックを国民を民族主義的熱狂に駆り立てる一大プロパガンダとして利用したことは良く知られている通りです。
注意すべきことは、およそ「民族」として認められている人々の集団は、「固有の文化」「伝統の文化」を、例外なくもっているという事実です。そうした固有の歴史や文化をもっているからこそ、他と区別される一つの民族として認められるのですから当然のことです。だから問題なのは、民族主義ではありません。一つの民族に属する者が、その民族としての自負と誇りを持つことは、決して否定されるべきものでもなく、非難されるべきものでもありません。そうした民族としての自負や誇りがなければ、民族自決もありえません。
では何が問題なのか。2つの問題を指摘できるでしょう。
一つは、何をもって自負と誇りを持つべき自分たち固有の「歴史」や「文化」とするのかという問題であり、もう一つは、自分たちを、「世界に冠たる」とか「神州不滅」などとして、他の民族よりも優れているとすることにあると私は思います。
前者は、本当に自負と誇りを持つべき歴史や文化とは異なるねつ造された歴史や文化を、自分たちの「固有の文化」「固有の歴史」であると為政者たちによって信じこまされるという問題です。戦前の日本がまさにそれであり、自民党が憲法を改正して前文に盛り込むことで、国民に押しつけて、「末永く子孫に継承」させようとしている「長い歴史と固有の文化」「良き伝統」などの言葉で言おうとしているものがそれです。
後者は、実は、前者と密接に関係していると思います。民族の歴史や文化をねつ造するのは、そのねつ造した歴史・文化によって、国民を民族主義的熱狂=ヒステリックな民族主義に駆り立てるためだからです。ですから、ねつ造される歴史と文化による民族主義には、排他性、独善性、狂信性がほとんど例外なくつきまとうのではないでしょうか。

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昨年10月15日に初版が刊行されたあさのあつこ氏の「花や咲く咲く」(実業の日本社文庫)の中に描かれているあるシーンを読むと、戦前の歴史や文化のねつ造と1人1人の国民の意識との関係がとてもわかりやすく理解できます。
この小説の主人公の1人、「戦時下にそんなことを考えるなんて、自分は非国民だろうか」と悩みながらも心密かにデザイナー(これも敵性語ですから、うかつに口にだすことはできません)を夢見る少女が、あることをきっかけに、近所の洋服店の奥さんから、「かさね色目」について教えられます。
かさね色目とは、昔の大宮人(おおみやびと)の装束の色の組み合わせのこと、で、袷の表地と裏地の配色とか、十二単のように重ね着したときの色合いなどを指し、200を超える組み合わせがあり、しかもその配色が、四季折々の風物や草木や花などに因んでいて、若葉色と薄紅を重ねて桜萌黄、白と緑で卯の花、檜皮と青で蝉の羽など、その1つ1つに名前がついていることを教えられた少女は、頬が紅潮するぐらい 誇らしい思いに突き動かされて、奥さんに次のように言います。

『やはり、わたしたち大和民族は世界に類をみない、優れた民族なんですね。』

そして少女は、それまで、学校で、先生から「万世一系の尊い御皇統を仰ぐわたしたち大日本帝国の民は、他のどの国よりも優れた民族なのです。」といわれてきたことに改めて確信を持ち、大きく胸を張りたい気持ちになるのです。

「誇らしかった。
桜がさね、橘、蝉の羽、女郎花、雪の下紅梅。
衣の色を重ねることに、こんな美しい名前をつけて楽しむなんて、わたしたちのご先祖さまってすごいと思う。なんて繊細で軽やかで研ぎ澄まされた感性なんだろう。
優秀だ。本当に優秀だ。」

しかし、奥さんは、少女のこうした感想にすんなりとは同意の意思を示してくれません。
やがて、少女が選んだ水色の端切れを愛おしむように撫でながら奥さんがつぶやきます。

「『sky blue(スカイブルー)』
聞き慣れない言葉が聞こえた。それが、英語だと理解したとき、私は身を竦めて、奥さんの顔を凝視していた。
奥さんが微笑む。
『azure blue horizon blue, 英語にも空の色を表すいろんな呼び方があるの。 中国にもね。天藍(ティエンラン)、海天藍(ハイティエンラン)なんて、すてきな呼び名がいろいろとあるのよ。日本だけやないの』
奥さんが空色の布をそっと箱の中に戻した。
『日本だけやないのよ、三芙美ちゃん』 」

そういって、奥さんは、菓子箱の中の煎餅を包んで、少女(三芙美)の妹へのお土産にと言って渡してくれようとしますが、少女は、それを受け取らずに、逃げるように奥さんのもとから帰ってしまいます。スカイブルーだの、アジュールブルーだの、ティエンランだのと、さらりと口にする奥さんがスパイかもしれないと怖かったのです。
このエピソードの中で奥さんは、たくさんの端切れを箱の中に保存して、桜萌黄、卯の花、桜重ね、橘、蝉の羽、女郎花等々 いにしえ人が名付けた美しい色を愛おしんでいます。同時に奥さんは、そのように美しい色を愛おしみ、大切にしてきたのは、決して「日本だけやない」ことを知っています。鬼畜米英とされるイギリス人やアメリカ人、あるいは三国人と蔑まれる中国人にも同じように美しい色を慈しむ文化があることを知っているのです。
他方で、皇国史観で教え込まれている少女(三芙美)は、奥さんが教えてくれた「かさね色目」とその豊かな色彩感覚を知って、「やはり、わたしたち大和民族は世界に類をみない、優れた民族なんですね。」と、日本人だけの優れた感性・感覚としてこれを受け止め、「日本だけやないのよ」という奥さんの言葉を素直には受け止めることができず、むしろ、敵性語を平気で使うスパイなのではとすら思うのです。
ここに、ねつ造された歴史・文化観による民族主義と、正しい民族主義との違いがくっきりと見て取れます。
自分たち民族の先人たちの生み出した「色の美しさを愛で慈しむ文化」を深く理解して、それを大切にする。それは、美しさそのものへの共感・憧憬・賛美等々であって、「世界で一番」であるかどうか「世界に類例が無い」かどうかなどということとは全く関係がありません。そこにあるのは、美しさそのものへの共感・憧憬・賛美なのですから、他の民族の持つ色の文化に対しても、「これはこれで美しい」と何の偏見もなく、これをすばらしいものとして受け入れることができるのです。

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民族主義のやっかいな点は、民族的な誇りが、容易に排他的、独善的、狂信的なそれに転じかねないということでしょう。「花や咲く咲く」の少女と奥さんのように対比されてみれば、排他的・独善的民族主義と真の民族主義の違いははっきりしてきますが、現実の生活の場では、その違いは極めて微妙ではっきりしていません。
サッカーの応援の中に、いつの間にか巨大な旭日旗を持つ人たちが混じり込んだり、オリンピックのメダル獲得数の多寡に熱狂したりする。クーベルタンの近代オリンピックの精神は「参加することに意義がある」だと教わったのは小学生の頃だったと思うが、国籍・人種・民族・宗教の別を問わず、1人1人の選手の表現するパフォーマンスに見られる卓越した身体能力や競技の能力・技術などを視聴者に伝えて、存分に味わって貰おうという視点で、オリンピックを報じることはほとんどみられない。たまにそうしたものがあっても、それは、日本の選手を取り上げて、見ている私たちに、「こんなにすごいことをやっているなら、きっとメダルを取れるだろう」という期待感を高めるためのものとなっています。競技そのものの素晴らしさ、競技に臨む各国の選手たちが繰り出す高いレベルのパフォーマンスの素晴らしさに、素直に感嘆し感動することとは、やはり微妙に違っているのです。
そして、さらに、昨今のテレビで異常なまでに増えている「日本礼賛」の番組の数々。それらに共通しているのは「日本だけやない」という視点の欠如であり、それに代わって「日本こそすばらしい」という視点の強調です。例えば、「物作り」における日本の伝統的な職人の技術は、確かに素晴らしいし、そうした技能を伝承してきた日本の職人たちの存在を、私は誇りに思います。しかし、そのことから、「だから日本の技術は世界一すばらしい」と一般化した途端、話は極めてうさんくさいものとなってしまいます。例えば、ピアノのヤマハ楽器や河合楽器は、今では世界のトップレベルの評価を得ています。そうなるについては、それぞれのメーカーの技術者や職人の人並み外れた研鑽と努力があります。そして私は、日本のメーカーがこのように世界のトップレベルのピアノを製造することができるようになっているということに誇りを持ちます。しかし、だからといって「日本人こそ世界一」、「日本人以外のものにはこの真似は決してできない」とは思いません。現実にもストラディヴァリウスやガルネリウス、アマティなどは日本人が製造したものではありませんが、その評価は世界的に揺るぎません。
こうしたことは楽器製造に限りません。何事によらず「すごーいですね日本」と言われて悦に入ったり他国を見下したりする前に、ちょっと立ち止まって考えてみる必要がありそうです。他国には、その国の独自の歴史と文化があることを。そして、そうした他国の文化や歴史には、わが国が学ぶべき優れたものが数限りなくあるという事実を。

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正しい民族主義は、自らの歴史や文化に自負と誇りを持つだけでなく、他の民族の歴史や文化に対しても謙虚になり、深い共感と尊敬を持つものではないでしょうか。そうであってはじめて、一つの民族と他の民族が互いを認め合い尊重しあう真の民族融和がなしえるのではないでしょうか。自分の民族の歴史や文化だけが世界で唯一無二の最も優れているものだという考え方からは、他国や他民族に対する蔑視と差別、さらには排斥と自分の文化の押しつけしか生まれないのではないでしょうか。
そう考える時、「日本を取り戻す」と復古宣言をして登場した安倍政権の誕生の頃から、日本礼賛の番組が急増している事実は、単なる偶然だとは言えないのではないでしょうか。そして、これが意図的なものであるなら、ジワリジワリと日本国民の意識の中に、排他的、優越的な民族主義をすり込んでいこうというこのやりかたは、それへの批判が、「日本の選手を応援して何が悪い」「日本の職人の優れた技術を賞賛して何が悪い」という反論しにくい形で番組作りをしている点で極めて巧妙で不気味だといわなければなりません。