白か黒か 何とも悩ましい

新聞に、「公衆トイレの掃除は男便所も、みな女性がやっているが、これは男性差別ではないのか」という趣旨の男性からの投稿が掲載されていました。確かに、この男性が言うように、トイレで用を足しているすぐ脇で女性が掃除をしているということがあると、私も、落ち着かないものを感じていましたから、この男性の言うこともわからないではありません。だからといって、それを「男性差別」とすることには、にわかには賛成しかねるのです。むしろ、私は、女性差別の現れと感じてきたからです。

私が、それを女性差別ではないかと考える理由は、いろいろあります。                        例えば、大分前になりますが、知り合いの女性が、御主人を亡くして、シングルマザーになったときに、一時、トイレ掃除のパート勤務をしたことがあります。その女性は、その経験について、「自分は、その場では、女どころか人としてすら見られずに、道ばたの石ころのように見られている」という屈辱的な感じを持ったと話していました。これは、とてもよくわかります。何度も書いていますが、私も父を早くに亡くしてシングルマザーに育てられていますが、もし、母が、トイレ掃除、それも男性トイレの掃除の仕事に就いていて、次から次へと用を足しにやってくる男たち(そうした男たちの中には、品性下劣な視線を母に浴びせたりする者もいるでしょう)の中で仕事をしていると知ったら、母の気持ちを思って悲しい気持ちになったことだろうと思うからです。

あるいは、最近は少し変わってきているようではありますが、そもそも、「トイレ掃除は女の仕事」という考え方がこの国にはあり、そのため、長い間、会社のトイレ掃除は、女子社員の仕事とされてきたのではないでしょうか。これは、お茶くみ・花瓶の花の手入れや入れ替え・社員たちのデスクや応接室のテーブルとソファーなどの掃除等々は女子社員の仕事とすることと共に、女性差別の定型と言えるでしょう。

ですから各地の公衆便所などのトイレ掃除がほとんど女性によっているという事実は、女性差別の表れとして考える方が自然だと思うのです。

 投稿氏が、男性差別と感じるのは、自分が用を足している姿を女性がすぐそばで目にしていることへの羞恥心が理由だろうと思います。そうした感情が無視されている、それは男性差別ではないかというわけです。それはそれで私には良くわかる感情です。しかし、「すぐそばに女性がいて、その人の目の前で用を足している」と感じる羞恥心が起こるのは、掃除をしている女性を女性として意識するからなのでしょう。これは、裏返して言うと、女性が掃除していても、気にもせずに平然と用を足しているほとんどの男たちは、掃除をしている女性を女性とは見ていない、つまりかって、私の知り合いが言っていたように「道ばたの石ころ」のようにしかみていないということなのでしょう。

一見堂々巡りのような話ですが、こうしてみると、やはりこれは女性差別の表れとみるのが正しいのかと思うのです。

但し、では、男性が女子トイレの掃除をすることはほとんど無いが、それは、なぜなのか、男性に女子トイレの掃除をさせるのは、男性差別になるからなのだろうかと考えると、問題は更に複雑になりそうです。

かすむリアル 見えなくなっていく真実・事実

 連休入りの1週間ほど前の4月22日早朝、腸腰筋過緊張(と思われる)による下腹部の激痛に襲われてしまい、その日の高裁の法廷は、一緒に事件を受任している同僚の弁護士に頼んで欠席させてもらったものの、翌日の法廷は、裁判所が期日延期に応じてくれなかったので、事務局が急きょ買ってきてくれた杖を突きながら、半ば這うようにして裁判所に出頭。それがたたったのか、翌日土曜の夜から症状が急激に悪化してしまい立つことが出来ない、ようよう起ち上がっても、今度は歩くのは、能役者のように極限の「ソロリソロリ」がやっとという有様に。土曜の夜から25日の日曜にかけて、ひたすら寝ること20時間。それでも痛みは治まらず、26日月曜午前の千葉地裁の法廷と午後の松戸の法廷は、欠席させてもらい、更に寝ること10数時間。火曜、水曜は、どうしても外せない離婚調停があり、杖を突きながら出頭。努力の甲斐あってか水曜の調停は、当方の主張がほぼ100%通った形での調停成立。29日の休日は、じっと静かに巣穴にこもる傷ついた野生動物状態で過ごしたいところだったけど、翌日が提出期限になっている準備書面の作成など、連休前にやっておかなければならないことがたくさんあり、少し寝て、痛みが和らぐのを待ってまた作業し、痛くなるとまた寝て、と、だましだましの1日。そして30日は、来客の応対、前日作業した準備書面などの仕上げや、22日から痛みのためにきちんと応答できなかったメールや電話や手紙への応答に追われて1日が過ぎてしまった。
 こうして迎えた連休。昨日(1日)は、また痛みがぶり返してしまう。今日も朝起きたときは、今日もまだダメか、と思う鋭い痛みが下腹部に走る状態だったが、この時間になって、少し和らいだので、ようやく30日の新聞紙上の記事を読んで、「これは」、と思い気になりながらも、そのままになっていたことについて、パソコンの前に座って、書きはじめてみました。


 記事は、「かすむリアル」と題する朝日の連載で、1回目は1面と23面に記事が掲載されていて、1面の記事の表題は「広がる『陰謀論』議員も共鳴」、23面の記事の表題は「コロナ不安 浸食する陰謀論」です。
 1回目の記事が取り上げているのは、SNSを中心に広がっている「陰謀論」特にその中でもコロナに関するものについてです。
 「陰謀論」とされているのは、次のような言説です。
 ビルゲイツの陰謀、ワクチンは殺人兵器、ワクチンにはマイクロチップが入っている、新型コロナは存在しない、PCR陽性は感染ではない、マスクは無意味、各国の感染者数・死亡者数は水増しされている、コロナはただの風邪、コロナは人口削減計画の一環、等々。

 私が、この記事に注目したのは、私の周囲にもこのような陰謀論にとりつかれてしまった人が何人かでてしまっているからです。
 それらの人たちは、安倍政治に反対してたった1人でスタンディングをしたり、原発廃止のために地道に地域の放射線量の測定活動などを続けていたり、ゴミで汚れた河川敷の掃除活動をしたり、先の戦争での中国での日本軍の犯罪行為の事実を知って貰うために粘り強く活動していたり、こつこつとミニコミ紙を発行して、人々の啓蒙活動をしている人など、どの1人をとっても、極めて優れた人たちで、頭が下がるとしか言い様の無い人たちなのです。
 だからこそ、そういうすばらしい人たちまでが、どうして「陰謀論」の虜になってしまうのか、どうしたらそこから引き戻すことができるのか、引き戻したいと思って議論しても議論しても、一層陰謀論にこり固まってしまうということに徒労感を覚えていた私は、何かヒントが無いだろうかと思ったのです。
 記事では、22年連れ添った夫が、陰謀論にとりつかれ、陰謀論関連のデモに参加したり「コロナはただの風邪」とするビラを周囲に配ったり、ノーマスクでの飲み会をたびたび開いたり、ついには、コロナは存在しないと言いだし、妻がマスクをしていると、なんでしてるのかと激怒するという状態になってしまったことで子供とも相談した結果、離婚に踏み切ったという夫婦のケースなどとともに、ジャーナリストの志葉玲さんと妻の映画監督の増山麗奈さんのケースを紹介しています。Qアノンの主張にはまってしまった増山さんを、「ものすごい労力がいった」と述懐する志葉さんが、「引き戻した」経験です。
 増山さんは、「世界のセレブたちが使う薬のために子供たちを誘拐、虐待する組織があり、トランプはそれと戦っている」「大統領はトランプが勝っている。その証拠にトランプは今でも大統領専用機エアフォース1で移動している」、「バイデンの就任前に緊急一斉逮捕がある」等々というQアノンの主張を信じこんでしまっていたのです。志葉さんは、妻がSNSで陰謀論関連の記事を見るときには、努めて、隣で一緒に調べ「冷静におかしさを伝えようとした」といいます。それでも、あまりの内容に「バカじゃねえの」と何度も言ってしまったと言っています。志葉さんの努力の甲斐あって、陰謀論から目覚めることができた増山さんが、どうして「バカみたいな」陰謀論の虜になってしまったのかについて、記事では3つのことを書いています。
 1つは、ラジオの共演者から児童誘拐組織の話を聞いて、スマホをクリックすると関連する動画が次々と出てきてそれが、かって自分が映画業界周辺で聞いた話と重なるように思え、その種の動画にのめりこんでいったこと
 志葉さんの例では、きっかけとなっているのはラジオの共演者ですが、別に紹介されている50代の女性の例では、きっかけは通っているクリニックの医師に教えられたユーチューブの動画です。「ラジオの共演者」や「クリニックの医師」という、その人にとって、信頼できる人からの情報が入り口になっていることが重要なポイントではないかと思います。これは、コロナに関する陰謀論を信じている人たちが、必ず「論拠」としてあげるのが、「〇〇大学の××教授の論文」等という「権威」者の議論であることとも共通しています。
 2つ目は、福島原発事故を通して、既存メディアに不信感を持つようになり、いろいろなことが隠されているのではないかという漠然とした思いが下地としてあったこと。
 3つ目は、「家族が寝てからや風呂場で隠れてスマホを見る」「教えられたユーチューブの動画を見続ける」など、一旦「はまって」しまうと、SNSでは、自分の考えを補強してくれる情報のみに触れて、それ以外の情報はシャットアウトすることができること。増山さんは「調べているつもりで、自分の見たいものばかり見続けていた」と述懐しています。この背景には、1997年に約5376万部あった新聞の総発行部数が、今は、3500万部に減っている(しかも、この3500万部の内には、自社の発行部数を水増しして公表しているといわれている読売新聞の部数も含まれていたり、家で新聞をとっていても、読むのはラジオ・テレビ欄・スポーツ欄のみという家族もいますから、実際に新聞のニュース欄や政治経済欄を読んでいるのは、この3分の1にも満たないと思われます)という事実があります。つまり、ニュースや政治・経済について興味と関心を持って何らかの媒体に接触するという人は、この国では既に激減していて、人々は、自分にとって必要な情報だけをスマホから取り出すようになっているのです。そういう真っ白な紙のような状態のところに、刺激的な陰謀論が入ってくるのですから、それこそ「干天の慈雨」のようなものです。

 それにしても、この記事が紹介している議員の例は、驚きです。福井県議で県議会議長も務め、自民党県連のナンバー2の斉藤新緑氏のケースで、現職県議のこの人は、「ワクチンは殺人兵器」「9・11のテロはCG」「アメリカの政財界や主要メディアは影の政府に支配されている」等というQアノンの主張を信じ、取材する記者に「コロナのワクチンにはマイクロチップが入っていて5G電波で繰られ、打てば5年で死ぬ」「菅も麻生も逮捕された。今表に出ているのはゴムマスクをつけたクローンだ」と語り、上記のような主張を記した議会報告冊子1万6千部を地元有権者に配布したというのです。志葉さんならずとも「バカじゃねぇの」としか言い様の無い、このような主張を書いた冊子を配布して批判の嵐にさらされたのかというと、そうではなく、「よくぞ言ってくれた」「こういう発言を待っていた」「シェアします」等々、全国から絶賛のコメントが殺到していて、党からも何のおとがめもないというのです。私は決して陰謀論に与するわけではありませんが、この事実は、この国では、既に人々の中に、物事の認識における「闇」が広がっているということを示しているのではないかと思うのです。


 
 この記事で紹介した陰謀論の主張を、知り合いの中卒の同年配のおばあさんに、こんなことを言っている人たちもいる、と教えたところ、こう言われました。
 「バカじゃないの?でも、いるんだよね。そういう人たち。
 ただの風邪の流行が、こんなに長いこと続くはずがないし、こんなにたくさんの人が死ぬはずもないということくらい、小学生にだってわかると思うけど、ただの風邪だって信じたいという人たちもいるのよ」
 そうなのです。志葉さんの妻の増山さんは、志葉さんが、Qアノンの主張のおかしさをいくら理論的に論破しても、自分の考えに固執していたのですが、その増山さんが、自分の誤りに「気づく」ことになったのは、トランプ派の人々が議事堂に乱入するという暴挙に出たという事実を見たときなのです。理屈ではなく、事実を曇りの無い目で素直に見るかどうかなのではないでしょうか。コロナで亡くなっていった人たちのことを統計論的な数字の問題にして他の死因での死者数と比較するのではなく、亡くなっていった人たちやその家族の無念の思いを素直に受け止めることができるかどうかなのではないでしょうか。
私の周りの陰謀論にとりつかれてしまって「コロナはただの風邪」と主張する人たちは、先にも書いたように、本当に尊敬に値する人たちなのです。名前も顔も知らない中国の戦争犠牲者を心から悼んだり、広島・長崎の原爆犠牲者に心の底から寄り添おうとし、原発で故郷を失った人たちに、思いを馳せる、そういう心優しい人たちなのです。それが、陰謀論によって目を曇らされてしまうと、コロナで亡くなっていった人たち1人1人の無念を、自分の無念とするのではなく、なぜか「〇〇での死亡者に比べたら、はるかに少ない」と切り捨ててしまうのです。
 私は時々考えることがあります。もし、私がコロナに感染して、命を落としたら、あの私が信頼する人たちは、それでも「コロナはただの風邪。マスクは無用」と言い続けるのだろうか、それとも、誤りに気づいてくれるのだろうかと。
 「理論的」な装いを持った陰謀論に捕らわれて、生の事実が見えなくなっていくこと、そのように人々を仕向けていくこと、それこそが、陰謀論を振りまいている大元の人々の狙いなのではないでしょうか。

新聞に、憲法を変えて緊急事態条項に賛成する人が57%という共同通信による世論調査の結果が報じられていました。
 つまり、この1年以上もの間、自分は、一生懸命感染防止のための行動をしてきたと考えている国民は、それにも関わらず、感染が減らずに増えているのは、マスクをせずに飛行機や電車に乗って騒ぎを起こしたり、多人数で集まって会食したり、休日になるとぞろぞろと繁華街に出歩いたり、路上飲みで騒いだりするような人たちがいるからだと考え、それをやめさせるには、政府にもっと強い権限を与える必要があると思ってしまっているのではないでしょうか。
本当は、有効で適切な対応をとらなかった、とろうとせず、検査抑制、アベノマスク、GoTo、等々によって、感染を拡大させてしまった政府をこそ責めるべきなのに、テレビに、路上飲みの姿や、繁華街を出歩く人々の姿を映し出すことによって、攻撃の矛先をそうした人たちに向けさせる。
それこそが、彼らの「思うツボ」なのではないでしょうか。
むしろ”陰謀”を疑うなら、一貫してまともな対策をとらずに、感染を抑制せず、まじめに「うがい・手洗い・ソーシャルディスタンス」を守ってきた国民を裏切り続けることで、国民に上記のように感じさせるように仕向けたことこそが、コロナが始まった頃の下村博文の発言を想起するなら、ありそうな陰謀ではないでしょうか。そしてそのように考えると、「コロナはただの風邪」「マスクは無用」「ワクチンは製薬会社の利権のためのもの」「コロナなど存在しない」等々と主張するのは、そのつもりがなくとも政権側のこの「ありそうな陰謀」の上で踊らされ知らないうちにその陰謀に手を貸してしまっていることになるのではないでしょうか。