年末年始に考えたこと(その2)ー大勢順応主義について

DCIM0439前回の記事で、私は、辻清明氏と丸山真男氏の対談を引用して、日本の『自由』は、既存秩序の枠内で無難にその日その日の社会生活や家庭生活をエンジョイする『自由』であり、それは、難しいことを考えたりしたりするよりも、面白おかしく楽しく毎日を過ごせれば良いという生活態度の中に国民を閉じ込めてしまうことで、その結果、政治権力は、国民の監視の眼から解き放たれて『自由』に好き勝手ができるようになることを意味すると書いた。

加藤周一氏が「消費社会というのは、比較的豊かな大衆が、自由の幻想をもっているということですね。主観的には自由と感じている。そして客観的には、広告会社やマス・メディアが操作している。…孫悟空は、大変勇ましくたたかいます。さんざんたたかうのだけれども、結局のところ、それはお釈迦様の掌(てのひら)の上で踊っているにすぎない。彼は自由に、それこそ縦横無尽にたたかっているのだけれども、お釈迦様の掌の上のことにすぎない。消費社会のなかで、みんな自由だと思っているし、ふるまっている。自由自在に活躍して、縦横無尽に外国を旅している。次から次へと、買い物をし、自動車を買い換えている。しかし、客観的に見ると、それは大広告会社などの宣伝の掌で踊っているにすぎない。いまの消費社会はそういうものでしょう。」(『ある晴れた日の出来事』1988・12 かもがわ出版 「加藤周一 戦後を語る」 2009・6 所収)と指摘しているのも、ほぼ同じ問題の指摘ということができるだろう。

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加藤周一氏のこの指摘は、戦前の経験を踏まえて、戦争の決定は権力だけではできないのであり、大衆操作と大衆の側の大勢順応主義があって初めて可能になると言う文脈の中で語られるのだが、氏はそうした大勢順応主義について、更に次のように指摘している。(同上所収『戦後世代の戦争責任』1993・11)
「少数意見が生きている社会では大勢順応主義が起こりにくい。少数意見がつぶされると、大勢順応主義が加速されていきます。…その動く方向を最終的に決めてしまうのが、権力による操作ということになると思います。」
「ドイツのヒットラーがいい例ですね。ヒットラーは大衆操作をやるのに、独創的な工夫をしました。それはアメとムチの政策です。いろんな福祉政策を実行し、失業問題を解決し、レクリエーションなんかも増進した。フォルクスワーゲンもつくって、自動車をみんなが買えるようにした。また、ニュールンベルグ大会のように花火を打ち上げたりする。たくさんのイルミネーションがあって、みんなでたくさんの旗を振って、制服を着て行進する。一種の大衆ヒステリー状況をつくる操作をしてしまうわけです。それがアメの方です。しかし、もし政府に反対すれば秘密警察を使って弾圧した。有名なゲシュタポです。これがムチの方です。」

こうした大勢順応主義の一つの重要な原因として、加藤周一氏は、国民大衆の中にある「日常だと解釈したがり」「聞きたいことは信じやすい。聞きたくないことは避けて通り、信じようとしない」社会心理の存在を挙げている。(同上所収『第二の戦前・今日』2004・10)

誤解してはならないことは、「戦争に協力する大衆の存在」として大勢順応主義を指摘するからといって、加藤周一氏は、決して先の戦争について「一億総懺(ざん)悔(げ)」論に与(くみ)して、国民全体に責任があるなどとは言っていない。

戦争を始めるには、国民大衆を操作して、国民大衆の大勢順応主義を利用することで戦争に突き進むことができるとの指摘は、言葉を変えれば、国民大衆は、利用されたのだという認識を包含している。
それゆえ、氏は、八百屋のおかみさんや、豆腐屋のおやじのような一般の庶民と、学者・文化人・議員・裁判官・法律家・ジャーナリストなどを同列において「一億総懺悔」などいう議論を排斥し、そうしたインテリ・知識層の人々が、戦後「知らなかった」「だまされていた」と弁解することに対して鋭く批判している。
権力が、国民世論を操作し、国民が、そうした操作に対して「日常だと解釈したがり」「聞きたいことは信じやすい。聞きたくないことは避けて通り、信じようとしない」社会心理のために、これに踊らされ、大勢順応主義になって、戦争の方向に誘導されようとしているからこそ、「操作」の嘘を見抜く力があり、見抜くために必要な知識を持っているインテリ・知識層が、見抜くための努力をせずあるいは見抜いていながら沈黙したことの責任は重いということなのだ。

かって、堺利彦は、100年以上前、日露戦争に対して国全体が戦勝気分に酔っていく中で、平民社に拠(よ)って、英雄扱いされながら出征していく兵士に向けて、「諸君今や人を殺さんが為に行く」「然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也」と書き、戦勝に浮かれ喜ぶ国民に向けて「戦争がもたらすのは増税であり、軍国主義の跋(ばつ)扈(こ)であり、物価の騰貴であり、風俗の堕落だ。」と書き、一貫して戦争反対の立場を貫いている。
彼の反戦の思想は、日露戦争の4年前の北清事変に万朝報の従軍記者として参加し、行軍する路傍に累々と横たわる兵士たちの死骸を見たり、住居を失って避難する女性や子供、老人たちの姿を見て、それを記事としてつぶさに書いているが、そうした事実に戦争の悲惨を強く感じたというリアルな実感に裏付けられている。(出典:「パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い」黒岩比佐子2013年10月16日 講談社刊)

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「聞きたいことは信じやすく、聞きたくないことは避けて通り、信じようとしない。」そういう国民大衆を操作しようとする者たちにとって、湾岸戦争の時にテレビで報じられたまるでコンピューターゲームを見るような空爆の映像は、まことに都合の良い映像だったといえよう。花火のようにも見えたあの映像の下で、その瞬間、罪のない多くの老人や女性や子どもを含む市民が、手足をもぎ取られ、腹を割かれ、目玉を吹き飛ばされるなどして殺されているというリアルなイメージを持っていた人がどれだけいただろうか。多数の従軍カメラマンや、従軍記者がそうした戦場に行っているというのに、マス・メディアには、そうしたリアルな戦場の姿が報じられることはほとんど無い。そのこと自体、既にマス・メディアに対する操作がしっかり行われているということなのだ。

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こうして、労働組合、マス・メディア、アカデミー、そして最高裁までも右傾化し、最後は議会内の反対政党がほとんど無くなるという状況が生み出されている今、私たちが、それでも大勢順応主義に陥らず、戦前の歴史を繰り返す愚を繰り返さないようにするためにどうすれば良いのかについて、加藤周一氏は、絶望してはいけないとして、いくつかの提言をしている。(前記引用書 『転換期 今と昔』1994・11)
① 一つは、「学びて思わざれば罔(くら)し」「思うて学ばざれば殆(あやう)し」という孔子の論語の言葉を引いて、歴史を学ぶことの大切さとともに、歴史を単に知識として学ぶだけ(勉強するけど考えない)で、「現代に対する自分の意見を持たずに歴史を学んでも、歴史は明らかにならない」し、他方で、現代の日本の民主主義にいくら強い関心があっても、歴史的事実を知らず、歴史を無視して現代に立ち向かうのは、ひとりよがりになるだけで危ういということ。
② 二つ目は、福沢諭吉の「一身独立して、一国独立する」との言葉を引いて、自分の見方をきちんと持つことの重要性であり、一国が本当に独立するには一身が独立しなければだめで、それが民主主義の伝統が生きているかどうかの問題だということ。
③ 三つ目は、立場を変えて見ることの重要性である。自分の立場、日本の立場など、一つの立場からのみ問題を見るのではなく、相手(国)の立場や少数意見の立場など様々な立場から問題を見て考えることが、偏狭なナショナリズムや、独善や、全体主義や大勢順応主義に陥ることを防ぐということ。
④ 四つ目は、自分の意見を持つだけでは十分ではなく、その意見をあらゆる機会に発表することが大事であること。
⑤ 五つ目は、そうした場として、小さくても良いからグループを作ること、そしてそうした小さなグループ相互の間の連絡網をつくっていくことが大切であること。
この提言は、それから20年経った現在も生きている。回り道のようであっても
私たちが、ここから一歩一歩進んでいくことによって、はじめて、たしかな未来が開けるのではないだろうか。

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年末年始に考えたこと(その2)ー大勢順応主義について」への1件のフィードバック

  1. その1その2共に、本当にそうだと思いながら読ませていただきました。

    私は先生のブログを出来るだけ多くの人に読んでもらえるようFacebookでシェアさせていただいておりますが、ママ友から1度も「いいね」がついたことはありません。もっとも私のママ友の数自体恐ろしく少ないので参考にはならないと思いますが。

    先生の文章は非常にわかりやすいので無理なく一気に最後まで読めます(たとえ長くとも)。決して難しくないと思います。
    だから誰でも読めると思うのです。

    でも、何の反応もない。
    その代わり、ママ友同士の、きょうのおかずでーす、とか、だれだれとどこそこに行ってきましたー、とかいう内容の写真付きの投稿には、いいね、数十件ついている。

    みんな学生の息子を持つ母親で、且つ、仕事を持つ社会人という立場なのに、政治については全く関心をもってないか、少なくとも、持っているという表現はなされていないのです。

    自ら税金を納めており、この国がこのまま突き進むと真っ先に犠牲となるであろう子を持つ母親がこれです。

    また父親も然り。

    去年の夏頃、仕事で御一緒させていただいたある国家資格を持つ方に、私が集団的自衛権行使容認に対する抗議行動などの話をしたところ、「私のような小物にはとても太刀打ちできるテーマではありません。」とあっさりかわされました。
    恐らく40代と思われるが左手の薬指に幸せそうな結婚指輪。良き家庭人なのでしょう。
    小さな幸せを守っていきたい、ということでしょうね。

    先日の、沖縄に対する振興費減額を政府が決定したニュースに関するコメントを読んだ時も、唖然としました。
    基地要らないんだったら振興費減らされても当然だよね、とか、あれもいや、これもいや、はわがままだ、とか。

    また、最近偶然見かけた、ある歯科医師と思われる人が書いているブログでは、大雑把に言うと「安倍さんが国民に信任されたという証拠です。私達は一度バブルの崩壊を経験してますから二度同じ失敗は繰り返しません。今の景気ははじけず、間違いなく良くなっていきます。安倍さん、これからもよろしくお願いします。」という類の内容が書かれてありました。

    この国の人達はどうかしてしまったのでしょうか。
    何が道理なのかわからなくなってしまいます。

    それでも諦めたら全て終わりになってしまいますよね。気力を振り絞り、絶望しないで加藤氏の五つの提言を実践していかないといけませんね。

    いいね

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