「方丈記私記」追記

20161105_093438

前の記事で、私は、堀田善衛氏の「方丈記私記」(1971年)を取り上げました。
その記事を書いた時点では、私はまだ「方丈記私記」を半分ほどしか読んでいませんでしたが、その後、読了した後半部分も含め、もうすこしこの本について書いてみることとします。
「方丈記私記」で堀田氏が展開しているのは、方丈記の学問的な解説や解釈論ではなく、冒頭に著者が「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の1つである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、また解釈でもない。それは、私の経験なのだ。」と書いている通り、1945年3月10日の東京大空襲を体験したときの自らの想念(心の動き、感想、感情等)を、方丈記とつきあわせながら、掘り下げ、つきつめていこうとする試みでる。それゆえの「私記」なのです。
だからといって「方丈記私記」がこれまでの方丈記についての学問的な先学たちの諸研究を無視しているわけでは決してありません。それどころか、方丈記についての学問的な諸研究は勿論、その周辺の歴史や文化(方丈記と同時代の著作や詩歌など)についての極めて豊富で深い知識を持ち、それを踏まえていて、その碩学ぶりは舌を巻くばかりです。
それにもかかわらず堀田氏が、これを「私記」としたのは、おそらく、この著作で堀田氏が表現している氏の「怒り」のためではないかと思われます。
「学術書には『怒り』はふさわしくない。」どうせ、そう批判されるのだろう。だったら、最初から、これは学術書ではない。私記なのだ。だから、何を書こうと勝手だろ、と言っておこうというわけです。ついでに、断っておきますが、以下の記述だけを読むと、あたかも、氏が新古今集や千載和歌集、あるいはそこで駆使されている「本歌取り」の技法や、「幽玄」を全否定しているような誤解を招くおそれがありますが、それは、私の引用の責任であり、氏自身は、そうした芸術の価値を全否定しているわけではありません。
それはともかく、氏の「怒り」は、何に向けられているのでしょうか。
氏は、大空襲のあった日の朝、「洗足池から電車で目黒駅まで出て、そこから新橋汐留駅近くのK君のお店まで歩いて行」き、そこで、「焼け出されて着のみ着のまま、焼けこげて生身の露出した襤褸をまとった人々、あるいはまた最小限の荷物をもって逃げ出してきた人々とすれちがいはじめた。そういう人々、罹災者たちのほどんどが鼻の傍に黒い砂、あるいは灰をため、眼のふちはもっと青黒く、灰やほこりで眼尻や口のまわり、額の皺などもあらわに刻み込まれ、一様に、すべての人々が涙を流してよろよろと歩いていた。泣いているのではない。火と煙で眼をやかれ、痛めつけられたのである。顔だけではなく、手にも足にも白い油状の火傷薬を塗りたくられた人々も少なくはなかった。(中略)新橋近くになって来ると、黒焦げの屍体も眼につき、消防自動車もトラックも電車も、すべて焼けこげて骨だけになっていた。」という空襲後の惨状を目の当たりにするのです。焼け跡を抜けてK君の店までたどり着いた氏は、そこに「ほとんど奇蹟的に」K君の店の一画だけが、「ぽつんと立体的に立って」残っているのを眼にし、「その、へんに立体的に立った家々の一かたまりが明らかに眼に入り、ああ残っている、と確認した瞬間に、私は、よかった、と思うと同時に、なんと莫迦げたこともあるものだ、と思ったことを記憶」し、「この、よかった、も、なんと莫迦げたことも…、という双方の感情を、今となって腑分けすることはなかなかむずかしい。25年後の今日、またこの25年間の私自身の思想的な営為のおそらくはすべてがそこに干渉してくるであろうから。」と書いています。
この「なんと莫迦げた」について、氏は、方丈記の中の
人の営み、皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家をつくるとて、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。」
を引き、「ここのところが、へんに爽快なものとして、きわめてさわやかな期待感を抱かせるものとして私に思い出された。」と記しています。
焼け跡の惨状を前に「よかった」だとか「へんに爽快」だとか「さわやかな期待感」とは一体どういうことでしょうか。氏は、焼け跡のまん真ん中に立って、治承4年に起こった竜巻による「かの地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとおぼゆる」ほどの災殃の実情を記したあとの結語として方丈記に記されている
「辻風は常に吹くものなれど、かかる事やある。ただ事にあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし。」
という一節をつぶやくように口にとなえてみると、「諸行無常の感などというよりも、ここでもまた奇怪な話だと思われる人があろうけれども、むしろ愉快、といったらますます異様なことになるにしても、真実に「ただ事にあらず」という、肉体的にまでわくわくするようなある種の期待感が胸に盛り上がってくるのであった。」と言っています。
それは、「満州事変からはじまるすべての戦争運営の最高責任者としての天皇をはじめとして、その住居、事務所、機関などの全部が焼け落ちて、天皇をはじめとして全部が罹災者、つまりは難民になってしまえば、それで終わりだ、終わりだ、ということは、つまりは、もう一つの始まりだ、ということで、上から下まで、軍から徴用工まで、天皇から二等兵まで全部が全部、難民になってしまえば。…」というもので、この本では、…で文章が止まっていて書かれてはいませんが、…の次に続く言葉は、「ここから新しい政治が始まるのではないかという期待感」ではないかと思われます。
それを氏は、自嘲をこめて「日本中、兵営も宮城も政府も工場もみな燃えてしまって、すべて平べったい焼け跡となり、天皇をはじめ万民、死ぬ者は死に、生きて残った者はすべてこれ平べったく難民ということになったら、どういうことになるか、という妄想」と書いています。しかし、氏がこれを「妄想」と書くのは、1971年にこの本を著した時点でのことであり「今でこそ私もそういう見透しを妄想と書き、また書かざるをえないという一種異様な悲しみのようなものをさえ感じ」ながら、そう書いているのであって、氏によれば、当時は、それは「妄想ではなくて、不気味なほどの迫力、ボテンシャル・パワーを内にもった、必然性の高い現実であった。」のです。
しかし、氏のこうした期待感が「いかに現実離れをした、甘いものにすぎなかったかということを現実によって思い知らされるのに、そう長い時日はかからなかった」のです。

20161106_090738
1945年3月18日、すなわち大空襲の8日後、氏は、知り合いの女性の消息を尋ねてその女性の住む深川を訪ねています。その途中の道すがら氏が目の当たりにした光景は、「なんにもなかった。実になんにもなくて、ずいと東に荒川放水路さえが見えそうな心地がし」て「平べったく一切が焼け落ちてしまっていて」そのありさまが示すのは「生きながらの大量焚殺であ」り、「現実は、想像を越えて」いたのです。女性が住んでいた富岡不動尊と富岡八幡宮との中間あたりも、例外ではなく、むしろ、そこでは、トタンの類いさえも、溶けて異様な塊になっていたり、石すらも触るとぽろぽろともろくこぼれ落ちて、火熱が異常に高かったことを示しています。そうした光景を前にして、氏が、富岡八幡宮の境内であったところに呆然と立ち尽くしていた時にそれが起こります。境内のあちこちには、火を逃れて避難してきた人々のものと思われる荷物が焼け焦げてころがっていて、それをかついて逃げてきた人たちは、荷物を放り出して逃げ、おそらくそう遠く無いところで焼き殺されたものと思われます。そこに、多数の警官と憲兵がやってきて、散乱している焼け残りの荷物などを蹴散らして整理のようなことを始めたため、氏は一旦境内を離れます。しばらくして境内に戻ってみると、焼け跡はすっかり整理され、憲兵が四隅に立ち、高位の警官のような者も数を増し、背広に巻き脚絆の文官のようなもの、国民服の役人らしいものもいて、ちょっとした人だかりが出来ています。遠巻きに様子をうかがう氏の前に、やがて、ほとんどが外車である乗用車の列があらわれ、中に小豆色の自動車が混じっていて、それは、「焼け跡とは、まったく、なんとも言えずなじまない光景であって、現実とはとても信じ難いもの」でした。
そして「小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りてきた。大きな勲章までつけていた。…私は瞬間に、身体が凍るような思いをした。」
だが、氏を打ちのめしたのは、こういう天皇の姿ではありません。それは「廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まってきて、それが集まってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙を前に置いて、しめった灰のなかに土下座をし、(中略)涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申し訳ない次第です、命をささげまして、といったことを、口々に小声でつぶやいていた。」という事実です。
それまで、氏は「ピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とを眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。こいつらのぜーんぶを海の中へ放り込む方法はないものかと考えていた。ところが、責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる!そんな法外なことがどこにある!こういう奇怪な逆転がどうして一体起こり得るのか!…(中略)…ただ一夜の空襲で10万人を越える死傷者を出しながら、それでいてなお生きる方のことを考えないで、死ぬことばかりを考え、死の方へのみ傾いていこうとするとは、これはいったいどういうことなのか?人は、生きている間はひたすらに生きるためのものなのであって、死ぬために生きているのではない。なぜいったい、死が生の中軸でなければならないようなふうに政治は事を運ぶのか?」こうしたことを帰る道々考え、更にこの本を著した1971年まで25年間にわたって考え続け、それでもまだ、十分な答えにたどり着けないまま、そうして著したのがこの本なのです。
氏は、焼け跡の灰に土下座をして、瓦礫に額をすりつけ、涙を流し、嘆き悲しみながら、申し訳ありません、申し訳ありませんとくりかえしていた人々の言葉は、彼らの真底からの言葉であり、そこにあるのは、臣民としての「無限に優しい、優情」であるとした上で、それはどこから来るものか、政治が人民のそういうやさしさに乗っかることは許されることなのかと問い、「人々のこの優しさが体制の基礎となっているとしたら、政治においての結果責任もへったくれもないのであって、それは政治であって同時に政治ではない」、それを言い替えるなら「無常観の政治化」だといいます。それは、政治がもたらした災殃について、為政者の側も、また災殃を被った国民の側も、それを責任の所在(尻ぬぐい)を「もって行きどころのない」ものとしてしまうという形でフルに活用されてきたと指摘します。私は、この部分を読んで、戦後、開戦責任ではなく、敗戦責任を問題とし、「一億総懺悔」による天皇への敗戦の謝罪を唱えた東久邇内閣を想起しました。まさに、こういう形で戦争責任は、戦後一貫して曖昧なものにされてしまったのです。

20161103_100822
話を戻します。氏は、これ=「無常観の政治化」は、一朝一夕に成立したものではなく、まさに方丈記の書かれた時代ー日本中世ーにそれば形成されていったと言います。
「世上乱逆追討、耳に満つと雖も之を注せず、紅旗征戎我事に非ず」
これは、平安末期から鎌倉へ時代が変わっていく中で、大火、竜巻、地震、疫病、飢饉などが相次ぎ、夜盗・群盗などが跋扈する世の中について、藤原定家が「明月記」に書いた言葉です。氏は、「我事に非ず」を、まことにわかりやすく現代語に言い替えて「おれの知ったことか。」としています。
福原遷都ーおれの知ったことか
頼朝挙兵ーおれの知ったことか
世上乱逆追討、紅旗征戎ーおれの知ったことか
更に氏に付け加えると、
大火で都の半分が灰燼に帰し、数千人死亡?ーおれの知ったことか
飢饉で、都大路に屍体があふれてる?ーおれの知ったことか
……
だがしかし、この藤原定家は、朝廷を形成する皇族・貴族の一員であり、そういう者として生活を成り立たせている。大火に苦しみ、竜巻や地震に苦しみ、疫病や飢饉に苦しむ人々からの公租によって生活しているのです。従って、その彼の「おれの知ったことか」は、単なる一個人の意思の表明ではなく、当時の皇族・貴族ー要するに支配階層全体の政治的無責任を表していることにほかなりません。そのことを、氏は、定家だけでなく、同時代の多くの文献資料を挙げて論証していくのですが、その鋭いメスは、定家の父藤原俊成が撰した千載和歌集(「この和歌集のいったいどこに、兵乱、群盗、天変地異の影があるものであろうか」)や定家の和歌に及んでいきます。

天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月のひかりなりけり
(定家「初学百首」)

「その月のひかりの下の現実世界では、連続大地震、兵乱、殺戮などのことが日もあえずに行われていた、そういう現実の一切の捨象を可能にしたものは、やはり私は朝廷一家というものの在り様と無関係ではないと思うのだ。朝廷一家の行う”政治”なるものが、政治責任、結果責任などというものとまるで無関係なところにあるものとして在るからこそ、怖るべき現実世界の只中においてあのような形而上世界を現出させえたのだ、(後略)」

こうした定家ら皇族・貴族と異なり、かれらの身分の外にある地下人(じげにん)の鴨長明は、同じ時代を
「古京はすでに荒(れ)て、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。」
と表現して、時代を動きー変化において捉え、そこでの人々の心地(「浮雲の思ひ」)を捉えています。この「浮雲の思い」は、この稿の冒頭で私が紹介した氏が3月10日の東京大空襲の惨状を前に抱いた思いに近いものです。虚脱、不安、新しい時代への期待などの様々な思いが交錯する心情とでも言えるかもしれません。
いずれにせよ、そこにあるのは、世の中がどうであろうと「おれの知ったことか」と、世上の現実とは完全に切り離されたところに形成された宮廷文化とは、根底から異なっていると氏は指摘します。

私たちが、新古今集の時代に最も盛んになった和歌の作成技法として、学校で教えられた「本歌取り」。あるいは、詩歌、管弦、芸能、建築、文芸など日本文化の根底に流れる日本独特の感性「幽玄」。それらを氏は同じ文脈の中で、ばっさりと切り裂いています。少し乱暴にまとめてしまうと、次のようになります。
「本歌取り」は、現実を見ず、現実を詠まないための技法であり、現実を詠まないなら何を詠むかとなると、いきおいそれは「余情、余韻、風情、興趣、風雅」等々となり、これすなわち「幽玄」にほかならないと。
こうした氏の指摘は、学校の授業で「本歌取り」や「幽玄」を学んで、よくわからんが、なにやらすごい高度の教養に裏付けられた日本が世界に誇る芸術性のようだという程度の知識しかなかった私には、正直なところ、新鮮な驚きでした。
「たとえば、千載和歌集などから以後の、とりわけて新古今集などになると、歌集の全体としては、よくもまああの動乱、権力闘争、朝廷一家の底の浅い陰謀、腐敗、堕落、関東武士の野蛮、残虐、ほんの少しの例外を除いての僧侶たちの厚顔、狼藉、暴行、それに全体的飢饉、火事、地震、悪疫、戦乱と窮乏などのことを越えて、あるいはまったく無視し得て、よくもあれだけのことをなしえたものだ(後略)」「千載集から新古今集にいたる間の600番だの1500番だのという、途方もない歌合といわれる文化的行事の、そのどこに飢饉、屍臭、戦乱、強盗、殺人があるか。どこにも絶対にないのであるから、世界の文学史上、おそらく唯一無二の美的世界である。異様無類の『夢の浮橋』である。」と氏が指摘するとき、これと対比して方丈記の、これらの現実についての極めてリアリスティックな記述を読むと、「なるほど、こんな無惨なことが日常化していた時代に、それを”我事に非ず”(おれの知ったことか)と言い捨てたり、その悲惨事がたったの一言も出てこない歌集とは、何なのだろう」と納得せざるをえません。そういえば、確かに、「ことさら当芸において、幽玄の風体第一とせり。」とした世阿弥は、写実を排した舞を求めています。「写実を排する」を裏返すなら「現実を見るな」でしょう。
「言葉は、古語を使え、現実は詠むな」という本歌取りについての定家の歌論は、言葉すらも、現実に根ざした現代語の使用を禁じるという意味で、徹底しています。
そして、氏は、これは700年前の昔のことではないとして、「1945年のあの空襲と飢餓にみちて、死体がそこらにごろごろしていた頃ほどにも、神州不滅だとか、皇国ナントヤラとかという、真剣であると同時に莫迦莫迦しい話ばかりが印刷されていた時期は、他になかった。戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、他に類例がなかった。論者たちは、私たちを脅迫するかのようなことばづかいで、日本の伝統のみやびを強制したものであった。危機の時代にあって、人が嚇と両眼を見開いて生者の現実を直視し、未来の展望に思いをこらすべき時に、神話に頼り、みやびやかで光栄ある伝統のことなどを言い出すのは、むしろ犯罪に近かった。(中略)この本歌取り文化というものは、連綿としてわれわれの文化と思想の歴史のなかに生き続けた。」というのです。

そして、自民党憲法改正草案の前文には、次のように記されています。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、…日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中