印象操作・思考欠如・官僚主義

この夏の事務所ニュース「常磐木」に私は、「印象操作」について書きました。
それは、主に安倍政権が、常用してきた国民誘導の手法(戦術)としての印象操作について、その特徴と問題点を指摘するものです。
特定秘密保護法、安保法制、共謀罪など憲法学者や刑法学者がこぞって違憲と指摘していた法律が、まともな国会審議もなされないまま次々と強行採決されてしまっても、なお、安倍内閣の支持率が下がらないのはなぜなのか。その理由の一つが、安倍政権が積極的に活用している「印象操作」です。
印象操作とは、自分や自分の仲間に都合の良い印象を相手に与えるように操作したり、逆に自分や自分に敵対する者に悪印象を与えるように操作することで、ものごとを自分に都合のよい方向に誘導する行為です。
操作に使われる手法は、服装・話し方・態度やふるまいから、事実の恣意的摘示あるいは事実の不摘示(隠蔽)、更には、虚偽事実の摘示など極めて多種多様にわたります。
「印象操作」が政治の世界で使われるのは、基本的にプロパガンダのためです。小池知事の緑の統一カラーなどもある意味では印象操作と言えます。
印象操作そのものは、私たちの日常生活でも、ごく普通に行われています。女性の化粧や、就活に臨む学生がリクルートファッションで身を包んだり、同じように見合いに臨む両人や取引相手との交渉に臨む営業マン等も相手に好印象を与えようとして常とは違う身なりや立ち居振る舞いをします。そこには大なり小なり印象操作がありますが、誰もそれを悪とは思いません。
問題は、真実・事実と違うことを真実・事実と思わせることで、国民を誤った方向に誘導する「印象操作」です。そうした「印象操作」は、安倍政権の基本的手法として繰り返されてきました。
前川氏に対する人格攻撃は、その典型です。獣医学部新設に関して「行政がゆがめられた」事実があり、「総理の御意向」「官邸の最高レベルが言っていること」などの文書は間違い無くあるという前川氏の告発に対し、告発者の前川氏の人格をおとしめるための「疑惑」を報道させて事実をあいまいにしようとしたのです。
テロに対する国民の漠然とした不安を煽った上で、国内だけでなく、国際的にも共謀罪法案はテロ対策にはあたらないという指摘がなされても、それを無視してテロ対策と言い続けたのも、そうすることで国民世論をテロを防止するために必要な法律ならやむを得ないと思わせるための「印象操作」にほかなりません。
実は「テロ対策」という言葉が国民に対する「錦の御旗」になっているのは、安倍政権の「印象操作」の結果というよりも、アメリカを中心とする全世界的な「印象操作」の結果なのです。それは、9・11後のブッシュの「対テロ戦争宣言」によって、アメリカとその友好国の国民にすり込まれたある種の固定観念にほかならないからです。世界を敵(テロリスト)と味方(テロリストと戦う国)に二分する形で描き出し、「どちらにつくのか」と国民に迫る。しかし、それは、世界を、真にありのままに捉える見方では決してありません。なぜなら、世界には、ブッシュが描き出した敵・味方だけがいるのではなく、それ以外の無数のバラエティに富んだ人々がいて国々があるからです。世界を敵と味方に二分する形で描き出し「どちらにつくのか」と国民に迫る者たちは、そうすることによって、「無数のバラエティに富んだ人々と国々」の存在を消し去り、国民がそうした人々や国々と結びつき、そうした人々や国々との関係を築くことによって「テロ」の問題を、全く異なる方法で解決する可能性を奪っているのです。現に、ブッシュの「対テロ戦争宣言」後、アメリカでは、アフガン戦争やイラク戦争などに反対する人々は、「裏切り者」扱いされて、公の舞台から抹殺されていたのです。世界には、敵と味方だけではなく、無数のバラエティに富んだ人々がいて国々があるのが事実なのに、世界には、敵と味方しか存在しないと国民に思い込ませるのですから、これも「印象操作」による嘘の刷り込みにほかなりません。かって、冷戦時代に、「共産主義か自由主義か」という二分論で世界を描き出して、どちらにつくかを国民や周辺国に迫ったのも、同様の「印象操作」と言えるでしょう。

現在テレビで流されている「ミサイルが発射されたとき」の広報は、国民に危機意識を煽るという「印象操作」そのものです。
新聞紙上やテレビ画面には、盛んに、アメリカに向けて発射される北朝鮮のミサイルの軌道を、日本の上空を通って太平洋をまたぎ、アメリカに到達するかのように描く地図が紹介されていますが、実際の軌道は、ユーラシア大陸の東側の縁を通って、アラスカ上空からアメリカ本土に向かうもので、日本上空を通ることは無いのですから、これも、嘘(フェイク)ニュースによって、国民の恐怖感を煽っている「印象操作」にほかなりません。そうした「印象操作」の上で、「ミサイルが発射されたとき」の広報を繰り返し流していれば、国民の注意をもっと重要なこと(共謀罪、森友・加計疑惑、憲法改正等々)から逸らすことができるし、ミサイルが飛んでくるかも知れないのだから、それに対処するための憲法改正もやむを得ないと国民世論を誘導出来ると思っているのでしょう。二重の「印象操作」です。

少し前の話ですが、後藤健二さん・湯川遥菜さん殺害事件すら、「だから、そういうときに、邦人を救出できるようにするため安保法制が必要なのだ」(2015年1月25日NHK「日曜討論」で、安倍首相はそういう趣旨の発言をしています。)という「印象操作」に使われています。本当に健二さんたちを救いたかったのなら、人質事件の進行している最中にエジプト、ヨルダン、イスラエルなど(何れもアメリカの盟友)を歴訪した挙げ句「イスラム国と闘う周辺各国に2億ドルの支援を行う」などと演説して、イスラム国に事実上の宣戦布告をするはずもありません。健二さんたちが殺害されたのも、翌年のダッカ事件で7人の日本人が、日本人であることを確認された後に殺されたのも、この宣戦布告演説と無縁ではありません。本当に健二さん達を救おうとするなら、「テロリスト=殲滅すべき敵」という固定化されたブッシュ式の二分論の図式に乗って行動するのではなく、「無数のバラエティに富んだ人々と国々」の持つ別の道、別の可能性に耳を傾け、そこから真の解決への道を生み出す努力をしていくことこそ必要なはずです。「テロリスト=殲滅すべき敵」として「テロリストを根絶する」ために行われたアフガンやイラク、シリア等々での空爆は、それらの国土全体を荒廃させ、無数の市民の犠牲を生み、無数の難民を生み出し、そしてそうやって生み出された無数の難民は、西欧諸国で「余計者」として排斥の対象にされることによって、「テロリストの根絶」どころか、新たなテロリスト予備軍を大量に生み出しているのですから、アメリカが主導する「敵・味方二分論」の誤りは明らかなのです。
テロリストが生まれる原因を根絶しようとするのではなく、「テロリストを根絶する」と言う思想への一元化は、特定の宗教、人種、国籍の人々を根絶するというジェノサイドに限りなく接近してしまいます。
そうした実例は、ドイツのダッハウやアウシュビッツ、日本の重慶爆撃や南京事件、あるいは、第2次対戦時のアメリカの「リメンバー・パールハーバー。ジャップを根絶やしにしろ」という思想の一元化が、市民居住地への無差別絨毯爆撃や、広島・長崎への原爆投下を正当化したり、冷戦構造時代の、「共産主義か、自由主義か」という敵・味方二元論が、ベトナム戦争で、「人民の海」に依拠してゲリラ戦を展開するベトコン(南ベトナム解放戦線)に対して、「人民の海」そのものを根絶やしにすることを目的とする無差別爆撃(北爆)を正当化した例などで経験しています。現に、トランプは、イスラム国からの入国を全面禁止するということにより、特定の宗教(イスラム教)を信仰する国民や人種そのものをひっくるめて敵と見なしています。しかし、必要なのは、「テロリスト(=人間)の根絶」ではなく「テロリストを生み出す原因の根絶」なのです。

首相の「積極的平和主義」の言葉や、安保法制の各法律が「国民の安全や平和」の看板を掲げているのも、平和学の権威ガルトゥング博士が指摘するとおり、「暴力や戦争によらず、信頼と強調で成り立つ平和を追求する本来の積極的平和主義」とは正反対の意味での使い方であり「印象操作」です。実は、このガルトゥング教授の言う「暴力や戦争によらず、信頼と強調で成り立つ平和を追求する本来の積極的平和主義」の可能性こそが、さきほどから私が指摘してきた敵・味方二分論とは異なる立場を取る「無数のバラエティに富んだ人々と国々」の持つ可能性に依拠する立場に他なりません。それはまた、日本国憲法前文や9条の立場に他ならないのです。
つい先日の核兵器禁止条約の成立は、この世界には、「敵」と「味方」だけではなく「無数のバラエティに富んだ人々と国々」がいることを明らかにしたのです。この条約成立のための行動の先頭に立っていたのは、日本の中の「無数のバラエティに富んだ人々」(ヒバクシャを中心とした反核を求める人々)なのです。ところが、日本政府は、アメリカと共に、この条約成立に賛成しませんでした。日本政府(安倍政権)は、敵・味方2分論の立場に立って、「敵」との戦争を推し進めようとしているのです。

首相の演説や国会での答弁も徹底して「印象操作」を意識して為されています。彼の断定的な口調は、あたかもそれが真実であり当然のことであるかのような印象を与えることを計算しているのです。そうしたやり方が、森友・加計問題や、稲田問題などでは裏目となって急激な支持率低下を招くと、今度は、党内の首相のやり方に批判的な人物を閣内に迎える内閣改造をした上で、殊勝に反省の言葉を並べることで「反省と度量の広さ」をアピールする「印象操作」をしているのです。
内閣改造後の共同通信の世論調査の結果、内閣支持率が44.4%まで上昇していますが、これはこうした「印象操作」が一定の効果を上げていることを示しています。

こういう「印象操作」が、これほど有効に機能している背後には、政権によるマスコミ支配があります。頻繁に繰り返されている首相と新聞・テレビ等の幹部との会食、他方での新聞・テレビ等に対する「公正・中立」を口実とする執拗な苦情や申し入れ等々。こうしたことの結果、マスコミ自身が、政権の「印象操作」の片棒を担ぐようになっているからです。例えば、読売は、前川氏に対する人格攻撃記事を書いて加計学園への官邸の不当な関与問題を覆い隠そうとしたり、森友への8億円値引き問題が発覚した当初、これをベタ記事で取り上げ、しかも、政権側の便宜供与否定のコメントのみを報じています。NHKは、前川氏に対するインタビューをしておきながら放映せずにお蔵入りにし、共謀罪の国会審議もまともに中継しませんでした。首相の「でありますからして、一般人が対象になるなどということは、これはもう絶対にありえないわけであります。」という断定的な答弁シーンのみを流し、野党側の具体的で理路整然とした追求のシーンはまともには放映しない。こういう形での「印象操作」をマスコミが積極的に担っているのです。
表向きは「丁寧な説明」の言葉を繰り返しながら、実際には「丁寧な説明」はかけらもしない。それでも、「丁寧な説明」と繰り返す安倍首相の映像と発言を報道する大マスコミを見て多くの国民は、「安倍さんは丁寧な説明をしているのに、なんで野党は反対するのか」と思ってしまう。これもマスコミと首相による「印象操作」にほかなりません。

ハンナ・アーレントは、ナチスドイツやスターリンの統治形態は、これまでの歴史上のどのような統治形態とも異なる異質なものであるとして、これを全体主義と表現し、そのような全体主義を形作る要素は何かを分析して有名な「全体主義の起原」(1951年)を著しています。アーレントの分析の基本的立場は、既存の概念や理念あるいは理論によって分析を進めるのではなく、事実を直視し、そこにある、これまでとは異なる新しいものを、そのあるがままの姿で捉えるというものです。アーレントによれば、既存の概念や理念あるいは理論を所与のものとして世界を描き出そうとすることは、事実の持つ複雑さや豊かさを切り捨て、理論(ドグマ)に事実(世界)を従わせようとするものであって、そこでは、個々の人間の持つ複雑性が否定され、そうすることによって、個々の人間の複雑性が認められ尊重されることによって初めて可能となる本来の意味での政治が失われ、全体主義の支配への道が開かれるとしています。このようなアーレントの著作ですから、そこで使われる用語は、全て、アーレントが分析対象としたものの持つ「それまでに無い新しい要素・特徴・側面等々」を表現するための用語として新しい意味を与えられた上で使われています。このため、読者は、まず、アーレントがこの言葉をどういう意味で、何を指し示すために使っているのかということから理解しなければならず、極めて難解なものとなっています。そこで、(アーレントには叱られるかもしれませんが)、私なりに理解したアーレントの主張を、私たちが使い慣れ聞き慣れた言葉に置き換えて、少し大胆に、言い直すと、次のようなことになるかと思います。

全体主義の社会では、個人の尊厳は徹底して否定されます。なぜなら、個人の尊厳は、一人一人の個人が他の誰とも異なる存在であり、それゆえにこそかけがえがないのだという事実を認め合うものです。そうした異なる諸個人(アーレントの言葉では「人間の複雑性」)が、集まり、意見を出し合い、行動すること、そこにこそ本当の「政治」-市民・人民が主権を持って形作る政治が成立するのです。だから、全体主義社会においては、そのような諸個人の独自性、複雑性は、社会の指導理念(イデオロギー)と異なるものを持ち込む可能性がある「余計なもの」として、徹底して排斥され、その結果、本来の意味での政治はそこには存在しなくなります。だが、人が独自の存在であり複雑な存在であり他の誰とも異なる存在であることは、人が人である以上、例外は無いのですから、結局のところ、全体主義社会では、人々全てを、人間としては余計な存在にしてしまうのです。つまり、全体主義社会では、人は、人間であり続けることは許されなくなるのです。「人間であり続けることが許されない」とは、人間として考えることを停止するということにほかなりません。アーレントは、このことを、アイヒマン裁判の経験を通して導き出し、アイヒマンの行動(ナチ親衛隊のユダヤ人問題の専門家として、ユダヤ人たちを強制収容所や絶滅収容所に移送する指揮を取っていた)の特徴を「思考欠如」として捉えています。全体主義体制に順応し、そこでの出世(それは、その体制の下では、英雄として認められた結果として与えられる)にしか興味が無く、独立した責任感を持たず、自分の行為の意味を、自らに対して「人としてどうなのか」と問いかけようとは決してしない。

アイヒマンは、その任務に就く前、ポーランドの絶滅収容所を直接視察し、そこにある恐るべき殺戮装置を目にして衝撃を受け不快に感じたと裁判で供述しています。そのアイヒマンが、その後何万ものユダヤ人などを強制収容所や絶滅収容所に移送する指揮を執るときには、良心の呵責を感じることもなく、むしろそれを総統への忠誠を果たす英雄的行動とすら思うようになっていたのです。
映画「サウンドオブミュージック」の中に、ドイツから国外に逃げようとするトラップ一家を見つけたナチ親衛隊の青年(この青年は、少し前のシーンでトラップ一家の娘と「I am sixteen going on seventeen」と歌い、恋人同士の関係として描かれています)が、一瞬の躊躇の後、笛を鳴らし、隊長に逃亡者発見を知らせるシーンがあります。この青年も、総統への忠誠を守ることこそ英雄的行為だとしたのです。彼は、自分が恋人の一家をSSの隊長に引き渡したら、その結果、この一家にどのような運命が待ち受けているのか、そういう運命にこの一家を追いやる行為は、人間としてどうなのかということを自らに問いかけることもせず、考えていないのです。


私たちは、このアイヒマンや青年のような実例を、現在目の当たりにしています。
特定秘密保護法、安保法制、加計、森友、共謀罪などの国会審議で、次々に登場する役人たちや、安倍首相の周囲の大臣らの国会議員たちの、誠実さに欠け、無内容で、質問のポイントを外してはぐらかすだけの答弁。彼らの表情は共通して生気に欠けていて、前川氏とは好対照をなしていました。
彼らを見ていて、次のような疑問を持ったのは私だけではないはずです。

特定秘密保護法が、憲法の罪刑法定主義に真っ向から違反し、国民の知る権利を奪い、そうすることで国民主権を骨抜きにする法律であることは、弁護士出身の担当大臣は、100も承知だったはずです。そういう人が、どうして国会審議で、あのように平然と嘘の答弁を繰り返すことができるのか、自分がやっていることが将来の国民にとってどんな意味があるかを考えたら怖くないのだろうかという疑問。
あるいは、自衛隊が海外(地球上どこでも)に派遣され、武力行使することができるようにする安保法制は、それゆえに明白な憲法違反であることを日本のほとんどの憲法学者が指摘しているのに、そうした指摘や批判に答えず、強弁を繰り返して、最後は、審議を打ち切り強行採決した自公等の議員たちは、自分たちのふるまいが、かって日本を太平洋戦争に引きずり込んで、300万の日本国民と1000万を超えるアジア太平洋地域の人々の命を失わせる誤った道へ進ませた帝国議会の翼賛議員と同じことを自分たちが繰り返していることを、怖いと思わないのだろうかとの疑問。
8億もの税金(森友)や、100億ほどの税金(加計)が関係する問題で、しかも僅か1年足らず前の問題なのに、「資料を廃棄した」とか「記録(議事録・会議録等)を作っていない」とか「どうであったか記憶が無い」等々と、誰が見ても嘘とわかることを国会の場で平然と言い続けることができるのはどうしてなのか、良心の呵責を感じ無いのだろうか、との疑問。

そうした私たちの感じた疑問は、アメリカに亡命していたアーレントがナチの絶滅収容所の話を初めて聞いた時に感じた疑問「ありえない。どうしてそんなことがありえるのか」と同質のものということができます。前述のように、アーレントは、その疑問に対し、「思考欠如」こそがその答えであるとしています。すなわち、全体主義体制に順応し、そこでの出世にしか興味が無く、独立した責任感を持たず、自分の行為の意味を、自らに対して「人としてどうなのか」と問いかけようとは決してしないことです。
私たちの前記の疑問への回答も、これと同じく「安倍一強体制に順応し、そこでの出世にしか興味が無く、独立した責任感を持たず(この点、行政の担い手として独立した責任感を明確に持っていた前川氏との違いは歴然としています)、自分の行為の意味を自らに対して「人としてどうなのか」と問いかけることも、従ってそのようなことを考えることも決してしない、そういう「思考欠如」(思考停止)が彼らに共通しているからであるということになるでしょう。

先に私は、内閣改造という印象操作の結果、内閣支持率が44%強に上昇した原因の一つとしてマスコミが政権の印象操作を補完する役割をしているという事実を指摘しました。しかし、それだけでは、支持率上昇の理由の説明として不十分で、印象操作が効果を上げるのは、印象操作に、易々と乗せられる国民がいるからなのだという事実を忘れてはならないでしょう。つまり、国民の中にも「思考欠如」(思考停止)している人たちが広範に存在するのです。
そうした人たちは、長い時間をかけて意図的に作られてきました。理財局長佐川君のように出世のために時の政権に忠誠を尽くし、それ以外のことは一切「見ない・聞かない・考えない」を貫く能吏となっていく一部のエリートとそれ以外の人々を分けて、異なった処遇をする差別・選別教育。拝金主義や刹那的で享楽的な文化の流布等々。
そうしたことによって、政権は営々として「馬鹿な国民」を作ろうとしてきたのです。ここで私が「馬鹿」というのは、学歴の有無や知識の多寡を問題としているのではなく、「思考欠如した」の意味ですから、東大や京大、早稲田や慶応等々の大学を卒業しているから馬鹿ではないということには決してなりません。このことを理解するには、戦前の731部隊を想起すれば良いでしょう。あの「悪魔の飽食」(森村誠一)の実行者たちは、医師や医学部生などの知的エリートです。しかし、彼らは、何千という捕虜たち(マルタ)を生きたまま人体実験の材料として、細菌感染させたり、全身激しい凍傷に罹らせたりして、それによって死に至る経過を、時には麻酔もせずに生きたままの身体を解剖するなどして冷徹に観察・記録するという生活を来る日も来る日も繰り返しているのに、そのことに何ら良心の呵責を感じていないのです。それは、彼らが人間として最も大切なことを考えることができず感じることができないからであり、人間として最も大切なことを考えることができないのですから、それは「馬鹿」としか言いようがありません。そういう「馬鹿」を政権は作ろうとしてきたのです。そして、そのことに政権は自信を持っているのです。だから、政権側には「国民は馬鹿だから、自分たちの思いのままにあやつることができる」という思想があるのです。印象操作を主要な戦術(方法)として採用している理由はそこにあります。
日本のメディア、マスコミが、ニューヨークタイムズや、CNNなどと異なり、政権からの圧力に極めて弱いのも、同じ理由によるでしょう。彼らは「面白くなければテレビではない」などと「一億総白痴化」(大宅壮一)に手を貸してきたがために、内心では国民を馬鹿にしているのです。「どうせ国民なんて、この程度のものを見せておけば、そこそこ視聴率も稼げるし、あんまり固い番組や難しい番組を作っても、見やしない」と散々馬鹿にしてきたのですから、今になって国民を信頼して、政権からの圧力を跳ね返す勇気を持つことができないのです。


しかし、核兵器禁止条約の成立を実現した人々がいるように、マスコミの中からも東京新聞の女性記者のような人たちが現れています。国民もいつまでも馬鹿にされたままではいません。都議選での自然発生的な「安倍帰れ」コールはそのことを示しています。政権側は、あれを組織的な選挙妨害だと「印象操作」しようとしましたが、実際には、その場にいた多くの一般の市民がコールに自然発生的に加わっていったことが明かになっているのです。国民が思考欠如から目覚め、個人として自立し、そうすることで、国民それぞれの持つ多様な視点から、現実を見つめ、議論し、行動するようになっていけば、彼らの空疎で偽りの敵・味方二分論を打ち破り、国民が主権者として行動する本当の政治をこの国に取り戻すことは、決して不可能ではないのです。
そのときに必要なのは、既存の固定観念に縛られず、本当の政治を取り戻すために最も重要な要素である人々の多様性を認めることでしょう。安保法制や共謀罪に反対する市民の運動の中に登場してきたSEALDsや市民連合などの最大の特徴は、一党一派に偏しないこと、何らかのドグマチックなイデオロギーによって「指導」されるものでは無いことです。

国民が「思考欠如」(思考停止)状態になったのは、「人間として思考すること」から排斥されてきたことによります。それは、歴代の政権からそうされてきただけでなく、理論や理屈やイデオロギーを独占する者たちからも、国民自身が、自分の多様性に従って自分で考えることを認められず、独占する者たちの言うことを受け入れ、それに従うように求められてきたことにもよるのです。その結果、既存の理論や理屈やイデオロギーは、自分たちのものではない、自分たちとは本質的に関係無いものと感じるようになり、独占する者たちの「憲法守れ」「安保法制反対」「戦争反対」「共謀罪反対」の声に「俺たち(私たち)には関係ないし、俺たち(私たち)は難しいことはわからないし、どうせ俺たち(私たち)の言うことなんか、まともに聞いてもらえないしさ」という「思考欠如」に逃げ込むことになったのです。このことを別の言葉で表現すると、官僚主義が、国民を「思考欠如」に追いやったということにほかなりません。運動の「独占者」「指導者」「指導グループ」の官僚主義について、そこにあるのは「自分の頭で考えないこと・考えることを許さないこと」であり、それを克服することこそが、安倍政権の暴走を食い止めることができるかどうかの分かれ目になると、私は、昨年12月のこのブログで書きました。
その文脈でいうなら、既存の特定の理論やイデオロギーから自由で、一党一派に偏しない、SEALDsや市民連合のような行動は、官僚主義が運動の中に入り込むことを注意深く避けようとしているものと言うことができます。そして、そうであるだけに、こうした行動・運動の持つ可能性は大きいと言えるでしょう。そのような行動が、巨大な可能性を持つことは、かってのポーランドの「自主管理労組・連帯」の行動から、東欧諸国への波及、そして1989年のチェコのビロード革命、さらには、そうした一連の市民によるスターリン主義的な全体主義から「政治を市民の手への取り戻す」ことを求める行動の積み重ねの延長上に起こったベルリンの壁崩壊の経験が証明しています。
私の住む身近な地域でも、かって、市民(区民)が区長を自ら選出することが許されていなかったことに対し、市民たちが区長準公選制の実現を求める行動を起こすことによって、区長公選への大きな流れを作り出し、ついには、区長公選制を勝ち取ったという経験を持っています。

市民・国民が、官僚主義と決別し官僚主義を克服しながら、自らの頭で考え、そうして生まれる多様で豊富な諸個人の意見を持ち寄り、議論し、行動に結びつけていく、迂遠に見えても、「この道しかない」のだと思います。

 

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