女性差別を自省する。

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このところ、めっぽう忙しく仕事に追われていたため、息抜きは、裁判所への行き帰りの電車の中と、法廷の合間の待ち時間に、本を読むこと位になっていた。
私の本の読み方は、乱雑というか、なんというか、まことに統一感に欠けることおびただしいものがあり、直接仕事に関係する専門知識に関わる本から、憲法や原発に関係する政治関係の本や、歴史書、科学書、ドキュメンタリー、更には、様々なジャンルの小説に至るまでとなる。まあ、本屋に行くと、手当たり次第に、最低でも10冊近くを買って帰るのだから、出版業界から表彰状が届かないかしらん、とひそかに思っている。
それはともかく、最近手にした本(乃南アサ「それは秘密の」新潮文庫)の中の小説「ハズバンズ」は、「かんちがい女」を取り上げて、この作家の筆の冴えがまことに見事だ。
たとえばこんな調子だ。
「濃い化粧、前髪だけ短く、あとは長く伸ばした上に緩くウェーブをかけている茶色い髪、耳たぶからぶら下がって肩に触れんばかりの大きなピアスや、じゃらじゃらと襟元を飾っているアクセサリーに、そして濃いピンク色のクロコダイル風バッグ、レモンイエローのカットソーに至るまでが、すべてやたらと派手なばかりで、コーディネイトもへったくれもあったものではない。水商売の女性ほど垢抜けた感じもしなければ、それなりの仕事を持って経済的に自立している女性の雰囲気からもほど遠く、無論、上品な家庭の主婦とも思えない。エレガントともゴージャスとも異なるが、それでもあえて褒めようと思うなら、まあ、とりあえずは若々しく見えるといったところだろうか」
小説は、この「かんちがい女」の元夫の語りの形で話が進められていき、それにつれて、結婚前からの語り手の男とのまことに絵に描いたような「アッシー君」関係から、結婚してからのわがまま放題、気分次第の女王様然としたふるまい、そしてやがて外に男(大手ゼネコンの部長で既婚者。2人の子もいる)を作って「だって、好きな人ができちゃったんだもん」と一方的な離婚。
「上昇志向の塊の、金を使うことが何よりも好きな女。見栄っ張りで、着飾ることが生きがいの女。つまり彼女だ。その結果、2つの家庭が壊れた。」
2つの家庭を壊しながら、今も、何一つ悪びれもせずに、語り手の男を訪ねてきては、自分の美容につかうためのお金の無心をする女。
読み進みながら、何度も心の中で、「そうだ。そうだ。そうだよな。」「女に対しては、女の方が見方が厳しいっていうけど、これを読むとまさにそういう感じだな。」「いる。いる。こういうかんちがい女。」と、快哉を叫んでいた。
そして、これでもか、とばかりに書き込まれるその女の「度外れた自己中ぶり」や「かんちがいぶり」に、次第に、語り手の主人公が、痛烈かつ痛快なしっぺ返しをその女に対してするという結末を期待しながら頁をめくっていた。
ところがである。これ以上書くとこの小説のネタバレになるからやめるが、私の期待は見事に裏切られたとだけ言っておこう。

見事に裏切られたことで、考えさせられた。
こういう「かんちがい女」「自己中女」を嫌悪し、それに対する痛烈なしっぺ返しを期待してしまっていた私は、実は、自分でも気づかないでいたが、女性を差別する目で見ているのではないだろうかと。

かって「恋のカラさわぎ」とかいう番組があったが、そこに登場する女性たちは、そろいもそろって私からするとまさにこの小説の「かんちがい女」「自己中女」の典型であり、そういう女を囃し立てるという番組だった。司会者のさんまが、そういう女のばかげた「自慢話」を囃すことで、登場する女たちが、さんまに迎合するように、前の週の番組の登場者が男に高級車を3台買って貰ったという話をしたら、次の週の番組登場者は、男に7台の高級車を買わせたという話をするというような、もっとすごい話(私からすると、もっとばかげた話でしかないが)をしていくようになるという番組だった。
話はそれるが、そんなことから、私は、「さんま」を嫌いになって行った。もっとも、さんまを嫌いになったのは、それだけではなく、他の番組で、小学生の子を登場させ、その子から露悪的な話を引き出してそれを笑いにし、そうすることでその子をますます露悪趣味の方向で司会者さんまに迎合させている姿や、あの大げさすぎる身振り手振りのわざとらしさのせいもあるのだが。
それはともかく、私の中には、そういう女たち=金持に群がり、ブランド物を買いあさって着飾り、見栄っ張りで、自分のことしか考えないという女たちに対しては嫌悪と軽蔑の気持しかなかったことは確かである。
しかし、乃南アサ氏のこの小説を読んで、私が嫌悪し軽蔑していた女たちに対する全く別の角度からの見方がありえるということに気づかされた。
それは、そういう「かんちがい女」や「自己中女」が生まれるのはなぜなのかということであり、おそらくそれは、女が女である前に、1人の人としてこの社会でまっとうに受け入れられていないということによるのではないのかという視点である。そして、そういう見方に気づけないで来たということは、女性を1人の人としてまっとうに受け入れない社会というものが、女性にとってどういう意味を持つことなのか全くわかっていなかったということなのだと思うのだ。それはつまり、私も差別者の側にいたということなのだ。

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