「そもそも 民主主義ってなんですか?」-3ー      素晴らしい答えがここにある。

 前回の終わりに、私は、「選挙を中心とした統治という考え方そのものを変える動き」について、次回以降に書いていきたいと予告しました。

 その時点で、私の頭にあったのは、前回のブログ記事をアップした日の東京新聞朝刊に掲載されていた「市民関われば、政治変わる」という新しく杉並区長に当選した岸本聡子氏の記事でした。その記事で氏は、「日本では政治不信が選挙に行かないという形で現れ」ていて、それは「現状を変えたく無い為政者には一番都合の良い状態です。」「議論しない、という政治文化も理解できません。」「有権者は、政策を見ていないと言う考え方はおごり。政策を見てもらう機会を積極的につくるのが政治に関わる者の使命です。国民が主権者意識を取り戻す上で、注目してほしいのが、やはり地方政治です。これだけ国が変わらない中で、主権者意識を持てと言われても厳しいものがあります。地方のことなら、選挙や地域の活動を通じ、街づくりや福祉、学校、公共サービスなど身近なものが変わる可能性があります。」「私は、……選挙戦を通じ、より広い市民層との議論を通じて政策をアップデートさせました。市民が関われば政治が変わるということを示したのが今回の区長選だったと思います。」と語っています。私は、この記事と、氏が選挙で勝利した後に氏の選挙運動の特徴について報じるいくつかの新聞記事から受けた極めて漠然としたイメージから、ここには、斎藤幸平氏が「人新世の資本論」の最後で書いている「コモンの復権」につながる重要なものがあるのではないかという予感を覚えていたのです。その時点で、私は、岸本氏の著書「水道、再び公営化!」(集英社新書)を取り寄せる手配をしていましたので、12日の夕方その本が届くとすぐに期待に胸を躍らせながらページを追っていました。
  
 期待を遙かに超える本でした。斎藤氏の「人新世の資本論」を読んでもその最も重要な結論である「コモン」を具体的なイメージとしてつかみきれず、それゆえまた、コモンを取り戻すために人々は何をすれば良いのかという具体的な行動のイメージもつかめずにいた私に、この「水道、再び公営化!」は極めて具体的で明瞭なイメージを指し示してくれたのです。
  ここに答えがあった!
  素晴らしい実践がここにはある。
  この道なのだ。
  この道をみんなで大きく大きく育てていくことが出来れば、本当にこの腐りきった世の中を変えていくことができるのだ。  
そんな確信を持たせてくれる極めて説得力のある実践の報告がここにはある。
 更に言うなら、ここには、宇野教授が「普通の人々が力をもち、その声が政治に反映されること、あるいはそのための具体的な制度や実践を示すものが民主主義なのです。」と書いている民主主義の具体的な姿がここにリアルに存在しているのです。

 世界には、こんなにも素晴らしい実践がすでにあるというのがなぜ広く知られていないのでしょう。

 岸本氏の当選が決まった後の6月22日、私はフェイスブックに次のように投稿しました。

🔶杉並区長選が白日の下にさらしたもの🔶
 杉並区長選の結果は、久々の明るいニュースでした。ところで、このニュースの朝日新聞での報道と東京新聞でのそれとでは、際だった違いがありました。
 東京新聞は、1面トップに大きく取り上げ、更に他の紙面でも取り上げて詳しい事実を報じています。とくに、支援者1人1人が区内の駅に立ち、岸本氏の主張を区民に周知していった「サポメンひとり街宣」行動を重要な勝因と挙げています。私(岸本)の選挙じゃなくて、みんなの、自分事の選挙、草の根の市民の選挙」と位置づけて選挙を闘ったというのです。
 これに対し朝日新聞は、1面どころか、社会面の下の方に小さく報じているだけです。しかも、岸本氏の勝利について「現職が飽きられただけ。向こうの失点に過ぎない。」という冷ややかな反応をする立憲幹部の発言をわざわざ記事の最後に紹介しているのです。
 私がもうひとつ立憲に信頼を置けないのは、こういう発言をする人たち(つまりは岸本氏やその支援者たちが切り開いたこれまでと全く違う選挙の位置づけや戦い方から学ぼうとするのではなく、むしろ勝利に水をさすばかりの人たち)が、幹部にいるからです。
 みんなで力を合わせて、平和と民主主義への攻撃をはね返していかなければならないのに、その展望がなかなか見えてこない今、杉並の経験は、その展望のありかを教えてくれる例えようの無いほど重要なものではないでしょうか。
 東京新聞は、そのことを正しく認識して、それにふさわしい記事の扱い(1面トップ)をし、重要なポイント(市民の自分事として選挙を組織)をきちんと報じているのです。
 他の新聞(読売・産経・毎日・日経)を読んでいないので、軽々に結論は言えませんが、朝日新聞の記事は、私には、この勝利に水をさしているだけのように思えてなりません。


         💠💠💠💠
 その後も、東京新聞は岸本氏のやろうとしている「民主主義」について繰り返し紙面の多くを割いて報じています。これに反し、テレビを含む他のマスコミで、同じ比重で岸本氏の実践を紹介しようとするものは、私の知る限り見当たりません。それよりなにより、これも「私の知る限り」ではありますが、既存の政党(いわゆる「野党」)で、杉並の経験にこれまで見えていなかった展望の芽を読み取り、そこから学び、それを今後の運動の中心に位置づけていこうとする動きが芽生えているという情報に接することも出来ていません。
 要するに、これは、真に現状を変革する可能性を秘めた動きに対して、既存の政党も、マスコミも、それを取り上げて広く国民に知らせていくのではなく、なぜか、その反対に、それを黙殺してしまうという対応を取っているという問題なのです。思うにそれは、それを取り上げることが、彼ら彼女らの「既得権益」に対する脅威になると本能的に感じるからなのでしょう。そして、そのように感じることには客観的な根拠があるのです。
 
新自由主義との闘いは、真の民主主義の担い手を必要とし、育て鍛えていく。

 新自由主義は、全世界で行き詰まりにつきあたった資本主義の最後の延命策に他なりません。行き詰まりの最大の原因は、国内的にも国際的にも、これまでのやり方では収奪の対象が限界になっているという事実です。そのため、これまでは「収奪の対象」「利潤の対象」とすることを許されてこなかった「公的サービス」部門を「新しく」「自由に」収奪の対象とすることを認める「聖域無き規制改革」を、その政策の中心にすえてきたのです。
 それとともに、新自由主義が、「新しく」「自由な」収奪の対象として組み入れていったもう一つの対象は、それまでの労働者保護の諸法規制を撤廃・改「正」することによる労働者・市民からの収奪にほかなりません。
 こうして世界中で、様々な公的サービスの「民営化」が進められていきましたが、それは、結局のところ、住民・市民にとって欠くことの出来ないサービス部門を、巨大資本の自由な収奪に委ねることになり、その結果、民営化を推し進めた諸国で起こっていることは、ガス・水道・鉄道・バス・郵便・学校・病院などでの料金の高騰や、統廃合などによって、サービスを受けられない大量の人々の登場なのです。このことと同時に進められた労働法制の改悪の結果、大量に生み出された不安定雇用労働者の存在とがあいまって、格差はかってなく深刻なものとなっています。
 こうした深刻な実情を背景に、世界各国で、奪われてきた「公的サービス」を自分たちの手に取り戻そうとする市民たちと地方自治体の取り組みが広がっています。「市民たちと地方自治体の取り組み」として広がっているのは、国や既存政党は、多かれ少なかれ新自由主義的政策(市場原理主義と緊縮財政)によって利益を得る巨大資本とともに、そうした政策を進めてきた立場にあって、新自由主義ときっぱりと手を切れないからです。
 他方、地方自治体は、一旦は公的サービスの民営化に手を貸し、それを進めた立場であるにしても、新自由主義的政策による公営化によって生じている様々な負の結果(住民の生活の足が失われてしまう。水の高騰によって住民の中に、「水貧困」の人々がでてしまう。あるいは、水道管の老朽化などに対するインフラの改修・改善に水メジャーが十分取り組まないことなどで提供されている水の質が劣化している。等々)の解決を国から押しつけられ、また住民のそうした実情を放置することもできないということもあって、それら「負の結果」と正面から向き合い、その解決に取り組まざるを得ないという立場に否応なく置かれていくからです。
 巨大資本は、民の財産を食い荒らすだけ食い荒らして、その結果の行き詰まりが生じた時に「逃げ出す」ことができるが、地方自治体は、逃げることは出来ないのです。だから、多くの自治体は、公共サービスを再び公営化することを望むようになっていくのです。とはいえ、それは、巨大な資本と国を相手に、1地方自治体だけでどうにかなるという問題ではありません。
 また、新自由主義の恩恵とは無縁であるばかりか、むしろその最大の被害者である市民たちは、「命の水、命のインフラ」を取り戻すという文字通り命がけの闘いに起ち上がらざるを得ない状況にまで追い詰められているのです。
 こうして、共に追い詰められた地方自治体とその住民とが協力しあって巨大資本や国と闘って再公営化を勝ち取るケースがいま世界ではいくつも生まれているのです。
 岸本氏は、アムステルダムの政策シンクタンクNGO「トランスナショナル研究所」に所属して2003年から各国の市民運動や自治体と連携して、こうした取り組みを進めてきた人で、その経験と知恵をこの本で惜しみなく私たちに提供してくれています。
 少し前置きが長くなってしまいました。岸本氏の本によりながら、今世界で何が起こっているのか、その詳細については是非この本を自ら手にとってお読みくださることをお願いしつつ、エッセンスを以下に紹介します。
    
 話は、2013年4月、麻生副総理・財務大臣のワシントンでの次のような発言から始まります。
 「水道というものは、世界中ほとんどの国ではプライベートの会社が水道を運営しておられますが、日本では自治省以外ではこの水道を扱うことはできません。」
「(日本では)水道はすべて国営もしくは市営・町営でできていて、こういったものをすべて民営化します。」
 当時「日本国内の水道をすべて民営化する」などという方針は、国会でも何も議論されていませんでした。麻生太郎氏は、それなのに、それがあたかも日本の既定方針であるかのように海外に向けて宣言してしまったのです。
 この発言は、「水は人々の権利だ。万人にとって生きていくために必要な水について考えることは民主主義の最も重要なポイントだ。」との考えの下、10年に亘ってヨーロッパを中心に、上下水道の民営化と闘い、再公営化を勝ち取ってきていた岸本氏からすると、1国の財務大臣・副総理が、水の民営化に対する各国での議論の深まりに何の配慮もみせず、さらに日本国民の中での水についての議論も待たずに、民営化を既定路線であるかのように語るものであって、民主主義に対する冒涜でしかないと感じる驚天動地のものだったのです。
 麻生氏のこの”トンデモ発言”が飛び出した舞台は、新自由主義的改革を強力に推し進めているワシントンの民間シンクタンク(戦略国際問題研究所)でした。
 1980年代以降、イギリスやアメリカで新自由主義の嵐が吹き荒れ、公的セクターは非効率的で、運営コストが高い、民間に任せることで効率化がはかられ経費削減が可能になるとして「官から民へ」のかけ声のもと、公共サービスの民営化が続いていました。各国政府や世銀、あるいはEUなどもこうした動きに同調していったのです。日本もその例外ではありませんでした。国鉄分割民営化、3公社の民営化、郵政民営化などはまさにそうした動きによるものです。そうした規模の大きな「民営化」だけでなく、私たち市民の足もとの地方公共団体を舞台にする公共サービスの「民営化」も、市民の知らないうちに、着々と進められてきたのです。それでもまだ、2012年時点で、命の水の民営化がなされていたのは、全世界の12%に過ぎなかったし、日本では、まだ議論すら始まっていなかったのです。
 そうした状況の中で、民営化の旗振り役のシンクタンクの場で、「世界中ほとんどの国で民営化されている」と事実でもないことを公言した上で、「日本の水道の全てを民営化する」と宣言したのですから、それは、日本の公共水道を外資系の巨大水メジャーに売り渡す用意があると宣言するに等しいものでした。

 新自由主義の「民営化」を推し進めているのは、ダボス会議(世界経済フォーラム)や、トロイカ(欧州委員会、欧州中央銀行、国際通貨基金)など、グローバル資本とそれと結びついたグローバル官僚たちであり、彼らの関心は、「民営化」による新たな利権の確保・拡大であり、「民営化」といいつつ、その内実は、当該の公的サービスにかかる事業の当事者である「住民・市民」からその事業に関わっていく権利を奪い(つまり、「民」から「民の権利」を奪い)、コミュニティの富(人々・民の富)をコミュニティの外に流出させていく手段なのです。民営化推進者たちの言う「効率化」とは、水道事業で働く人々の賃金カット、雇用者数の削減、必要な設備投資の先送りを意味するのです。
 ですから「民営化」に抗して公共の再生(再公営化)を求める運動と闘いは、新自由主義を推し進めるグローバル資本と国並びに各種の国際機関などの巨大な相手との闘いなのです。
 驚くではありませんか。そういう巨大な相手を向こうに回して、小都市や町や村が住民たちと共に再公営化を勝ち取るという成果を次々に挙げているのです。
 岸本氏の「新しい民主主義」を追う東京新聞の8月14日の記事の見出しは「新自由主義と対抗 公共を再生」ですが、相手の巨大さと比較するならいずれも「小さな」というしかない都市(市町村)とその住民たちが、巨大な相手との闘いに勝利して「公共を再生」することが出来ているのです。
 そんなことがどうして可能になっているのか。
 その答えこそ、ここで私がなんとしても皆さんに伝えて共有したいと思うことなのです。
 私たちが、ここでしっかりと見届け学んでいかなければならないことは、2つだと私は思います。
 1つは、どうやって(どのようにして)、そんな奇跡のようなことが可能になっているのかということです。
 もう1つは、そこで再生された「公共」はどういうものなのかということです。
実は、この2つ(どうやって=闘いの進め方、と、何を=闘いによって産みだすもの)は切っても切り離せない関係にあり、そのどちらにも、私たちがこれまで経験したことの無い「新しい民主主義」が貫かれているのです。

 そのことを具体的に理解してもらうために、スペインを例に取り上げて見ます。
 スペインでは、2008年のリーマン・ショックに端を発する世界経済危機の影響で、実質GDP成長率が2007年のプラス3.5%から2009年にはマイナス3.7%に急落し、失業と貧困が広がっていました。そうした中でスペイン政府が取った政策は、銀行救済のために公的資金を投入する一方で、EUの財政規律(財政赤字は対GDP比3%以内)を守るため、福祉や教育など公的サービス関連予算を大幅に削減するものでした。
 こうした政策によるダメージを最も深刻に受けたのは2~30代の若者たちで、その失業率は2013年には55.7%に達したのです。
 2011年5月15日、こうした政治に対する怒りと不満を募らせた若者たちが統一地方選挙を前に、各地で草の根の政治集会を開こうと呼びかけ、これに応えて、この日、マドリード、バルセロナ、グラナダなどで13万人の市民たちが抗議集会に参加したのです。15-M運動と呼ばれる運動の始まりです。その後、運動は広がりを見せ、6月19日には、スペイン全土の約80都市で300万人もの人々が街頭に出て抗議の声を挙げるようになっていきました。
 15-M運動を進める人々は、単に集まってデモをして終わるのではなく、広場や大通りを占拠し、そこに椅子やマイクを持ちだして、多彩な青空ディベートや車座集会を開いていきました。ツケを庶民に押しつけるだけの議会政治に失望した「怒れる人々」が求めたのは、市民1人1人が自分たちの望む政治に関われる政治を目指して「広場の政治」をスローガンにかかげて運動を進めていったのです。
 更に15-Mの潮流は、ストリートでの抵抗だけでは不十分だということで、左派政党ポデモス(「私たちはできる」の意)を誕生させ、2019年11月には、社会労働党(第1党)と連立政権を樹立するまでに成長しています。
 中央政治でのこの急成長は、15ーM運動の参加者たちが、それぞれの地元に「シルクロ」(サークルの意)と呼ばれる地域組織を結成し、ポデモスとゆるやかに連携しつつ、各地域に地域政党を誕生させ、マドリード、バルセロナなどの大都市でも市政の一翼を担うようになっていくなどして広範な人々が政治に関心を持ち、行動するようになっていったことによります。
 そうした地域政党の中でも最もめざましい活躍を見せた地域政党が「バルセロナ・イン・コモン」です。バルセロナの「怒れる人々」が不満と怒りを向けていたのは、住宅不足と水道・電気の料金高騰でした。住宅不足の原因は、過剰な観光客誘致です。年間3200万人に及ぶ観光客の存在は、賃貸アパートからそれよりも儲けの大きな民泊への転用を招き、その結果賃貸アパートの数量不足と家賃の高騰を生じて家賃を支払えない低所得者たちが大量に路頭に迷うこととなっていたのです。
 バルセロナの水道や電気は既に1860年代に水メジャー・スエズ社の現地法人アグバー・スエズ社によって民営化されていましたが、その料金は、他の民営化された地域や国々同様に高騰を続けて(水道料金は他の地域のそれよりも25%も高い)水道料金や電気料金を支払えないという「水貧困」や「エネルギー貧困」が深刻化していたのです。このため2000年頃から水メジャーに対抗する市民の草の根運動が続けられ、NGO「国境なき技術者団」や「バルセロナ地域自治協会」などがアグバー社の問題に警鐘を鳴らしてきたのです。
 バルセロナ・イン・コモンの誕生は、このような「普通の人々が普通の暮らしを営むことができない」事態を生み出している「民営化」への草の根の抵抗運動の蓄積の土台がある中で、2008年の不況によって水料金を支払えなくなった人々に対してアグバー社が水道の供給停止措置を執るという暴挙に出たことで全市民に広がった怒りの火を受けて作られた「命の水市民連合」などの闘いによるものなのです。
 2015年、バルセロナ・イン・コモンは市議会で第1党となり、市長も握っています。重要なことは、自分たちの代表が市議会で第1党になり、市長になっても、市長も市議も市民も、「あとは議員と市長に任せる」というのではなく、”地域レベルのことは、住民が寄り集まって小さな合議体を作り、話し合いで決めていくという伝統”を活性化し、それを市政につながるルートとして制度化していったという事実です。市民のニーズと声を丁寧にすくいあげ、市政に直接反映させようというこの仕組みは、バルセロナ・イン・コモン内で「政策のクラウド・ソーシング」と呼ばれています。
 これとは別にクラウ市政が新しく導入したものに「住民提案」のシステムもあります。これは、有権者の1%の署名があれば、住民が提起した条例案を市議会に提出して可否を問うことができるというもので、この制度の第1号議案になったのは再公営化の可否を問う住民投票の実施を市に求める署名活動で、「命の水市民連合」がこれに取り組み法定数の署名を集めているのです。
 このように地域にとって大切なことは、地域の人々が集まって議論し、自律的に決めていこうとするバルセロナ・イン・コモンの取り組みは、「ミュニシパリズム」と呼ばれ、ボトムアップ型の自治を目指す世界各地の様々な都市から注目を浴びているのです。
 ミュニシパリズムとは、選挙による間接民主主義だけを政治参加と考えず、地域に根ざした自治的な合意形成を目指すものであり、その性質上当然に、市民の直接的な政治参加を歓迎し、公共サービスや公的所有の拡充、市政の透明性や説明責任の強化などの政策を重視する考え方とそれに基づく政治を指向していきます。岸本氏は、これにつき、次のように書いています。
 <言い換えれば、利潤や市場のルールよりも、市民の社会的権利の実現を目指して政治課題の優先順位を決めることである。つまり、ミュニシパリズムとは新自由主義を脱却して、公益と<コモン>の価値を中心に置くことだ。>
 
 「国境なき技術者団」のミリアム・プラナスは、スペインの再民営化の運動について次のように書いています。
 <カタルーニャ地方では、2010年にフィガルソの町が初めて水道サービスの再公営化を成し遂げた。それから7年が経ち、再公営化への道は広く開かれ、バルセロナ市を含むカタルーニャ地方の住民700万人のうち約350万人が数年のうちに水の管理モデルの変化を目撃することになるだろう。これは、共有財として民主的に水を管理し、全ての人々の最も基本的なニーズを保証し、水源を保全するチャンスなのである。カタルーニャ地方における水道サービスの再公営化は、スペイン全土におけるより大きな民主化を求める流れの一部であり、これを妨害する保守的中央政府(注:2018年の政権交代前の国民党政権)のあらゆる試みに抗って現在進行中である。
 <再公営化は、自治体が公的管理を奪還し公的統治の復権を果たすというだけの問題ではない。再公営化による、民主的で効果的かつ持続可能な水道サービスにいたることを本当に望むのなら、水を共有財として管理しなければならない。これこそが公共サービスの再公営化に市民参加が不可欠な理由である。そもそもカタルーニャ地方における再公営化は市民運動なしにはあり得なかったことだ。
 <新たな公的水道管理モデルの中核は市民参加でなければならない。自治体が公的水道管理を取り戻すことによって、透明性、説明責任、市民のための教育・研修といった真に民主主義の深化が実現できることを証明しなくてはならない。それら全てが、不透明性、腐敗、水による利益追求を特徴とする民間管理モデルの古き慣習と決別する最強の戦略となるのだ。

 こうした指摘が示していることは、現在世界各地で取り組まれている「上下水道の再公営化」の運動と闘いの画期的で歴史的な意義は、まさにそれが、斎藤幸平氏が人新世の資本論で「コモン」として提起している新しい市民自治(=新しい民主主義)を体現する<コモン>社会を地域に生み出し、鍛え挙げているということにあると思うのです。
 プラナス氏の「再公営化は、自治体が公的管理を奪還し公的統治の復権を果たすというだけの問題ではない。」という指摘は、極めて重要です。ここには民営化以前の「公営」の本質は「公的統治」、すなわち、原始コモンからの支配者と被支配者の分離による支配者の「公」としての外化の結果であって、その意味で、以前の「公」(地方自治体)は、その本質上、被支配者=市民に対立する公的権力だったのであるから再民営化はそこに戻るということではないのだという認識が含まれていると思えます。だからこそ、再民営化運動の中で育っている民主主義は、これまでの民主主義の持つ矛盾や限界を乗り越えて、それを深化させ斎藤幸平氏の主張する「コモン」に限りなく近づいているのではないかと思うのです。
 そのことを岸本氏は、この本の冒頭で 「 【コモン】から始まる、新たな民主主義」
と表現しています。民主的に共有され、管理されるべき社会的な富がコモンであり、水道、鉄道、公園といった社会的なインフラ、報道、教育、病院などの制度、森林、大気、ひいては地球全体の環境がコモンであって、個人であれ、企業であれ、私的な所有に閉じ込めず、みんなで未来を考えながら、民主的に管理する必要があるのがコモンなのだと。斎藤氏も、民主的な方法で「コモン」を管理するという経験が、新しい民主主義的な政治と制度の基礎となっていくと語っています。
 バルセロナで、選挙で選ばれた市議や市長まかせにするのではなく、市民たちが、自主的・自発的に政治に直接参加していくための様々な運動や組織あるいは制度が生み出され、それによって政治を市民のものにしているように、水やコモンの再民営化を進めている他の地域や国でも例外なくバルセロナと同様に市民の自主的・自発的な運動や組織が直接政治に参加してコモンを共同管理していく動きが進んでいるのです。
 ここにあるのは、孤立し、無力な個人としての市民ではありません。自立し、参加し、発言し、提案し、決議に加わり、行動を共にしていく、そういう個人であり、ジョン・ホロウェイの表現を借りるなら「される人」ではなく、「する人」になった人々が、誰かに任せるのではなく、力と知恵を合わせて新しい世界を切り開いている姿なのです。
 そうなのです。だからこそ、この事実は、既存の政治と社会の中で何かしらの既得権益にあずかり、そこであぐらをかいている政治家、政党、官僚、マスコミ、学者、知識人等々にとっては、自分の居心地の良い居場所を根こそぎ失うかもしれないという危機感を本能的に感じて、「黙殺」しているのです。

「そもそも 民主主義ってなんですか?-2-

    
 古代の民主主義と言えば古代ギリシャ・アテネを思い浮かべる人も少なくないでしょう。しかし、その古代ギリシャの民主主義とはどういうものだったのか、どういう特徴を持っていたのかということになると、「古代ギリシャが民主主義の国だったということは学校で習ったけど、どういう民主主義だったのかということまでは習っていないから、よくわからない。」というのがおおかたの人の答えでしょう。

古代ギリシャの民主主義と現在の日本の「民主主義」はこんなに違う。
 そこで先ず、宇野教授に導かれながら、2500年前のギリシャの民主主義がどんなものだったのかを見てみましょう。
 まず最大の特徴は、「普通の人々が話し合いに参加し、国の政策を自分たちで決めていた」ことにあります。これは文字通り「普通の人々が直接参加し、決定する」のであって、特定の人を選出し、その人に政治を委ねる現代の代議制民主主義のような仕組みは、古代ギリシャではそもそも民主主義ではないとされていたのです。因みに代議制民主主義が生まれたのは200年ほど前になるというのですから、ギリシャ型の民主主義は、それより2300年も先輩となります。
 さきほど書いたように、私たち日本人は、代議制民主主義を民主主義の一般的な形として考えてきました。しかし、必ずしも、そうではなく、むしろ、最初に人類が生み出した民主主義社会の人々は代議制民主主義のような仕組みは、そもそも民主主義ではないと考えていたというのです。

 なぜ、民主主義ではないのでしょうか。
 それは、古代ギリシャの民主主義は「選挙」だけのことではなかったからです。そのことを理解するためには、古代ギリシャの民主主義について更にその特徴を見て行く必要があります。
(1)話し合いの場(民会)で徹底されていた1人1人の平等な発言権
 この権利(民会での発言の権利)は、政治的指導者であった将軍も、一般の市民にも平等に保障されていました。
 これはすごいことです。
 現在の日本は、代議制ですから、国会の場に参加できるのは、市民・国民のごく一部です。そのごく一部ですら、その全員1人1人に平等な発言権は保障されていません。少数政党には、その代表に数分程度の発言権(質疑権)しか認められていません。これでは、国民1人1人が自分の意見をみんなの前で発言し、みんなも、それを丹念に聞き自分の意見や考えを修正していくというギリシャの民主主義とは比較することすら恥ずかしいというべきでしょう。
 また、私たち日本では、国会に限らず、様々な会議や話し合いの場で発言する人は決まっているか、あるいは、特定の個人(例えばA氏)の発言に、A氏の発言だからというだけで、他のメンバーが追随するということは珍しくありません。しかし、こうした日本に「平等な発言権」があると言えるのでしょうか。
(2)自分たち全体のことを一部の専門家だけに委ねていてはいけない、重要な決め事は決して他人任せにしないという考え方。これは、民会だけでなく、評議会や民衆裁判でも貫かれていた考えです。評議会というのは、民会にかける議題について話し合う場で1年間の任期で500人ほどが評議員となります。民衆裁判というのは、普通の市民が裁判に参加して陪審員として判決する仕組みで、6000人の任期1年の陪審員からなる民衆裁判所が設立されていました。
 そして、重要なことは、これら評議員や陪審員はくじ(抽選)で選ばれていたことです。そうやってくじで選ばれた評議員や陪審員は、その社会的な地位や身分、経済的な貧富の差によって発言の権利が制限されたり発言の軽重が計られたりすることなく、平等な立場で発言することができたのです。
 こうしてギリシャ・アテナイの市民は、パン屋や桶職人から、仕立屋や蹄鉄屋などなどに至るまで、市民である限り、民会に参加し、いつでも評議員や陪審員になる可能性があるという自覚と責任感を持つことになっていたのです。
 何年かに1度の選挙で投票したら(あるいは何年かに1度の投票すらせず)、あとはお任せという日本の市民とは市民の意識は根本から違うのです。
(3)責任と切り離せない権利
 誰でもに発言の権利が平等に保障されていると言っても、それは、「無責任な発言」が放任されているということではありません。発言には根拠と責任が伴うのです。法に反するような無責任な発言は批判され、場合によっては民衆裁判にかけられて処罰されるのです。
 市民は、緊張感を持って参加するのであって、言い換えると誇りを持った参加であり、それは、昨今のSNSでの無責任な「言いたい放題」とは全く異なるものと言えそうです。 
(4)弾劾裁判・陶片追放
 責任の仕組みは、指導者や将軍に対して厳しいものがありました。弾劾裁判や陶片追放です。公金の不正使用などがあれば、裁判で厳しくその責任が追及されたのです。ここでいう裁判は、いうまでもなく、前記の民衆裁判です。
 陶片追放とは、独裁を行う可能性があると考える政治家の名前を陶片に記して市民が投票する制度で、政治家の独裁を未然に防ぐためのものです。
 宇野教授は、このような参加と責任のシステムが、人々の自覚と誇りをうながして、古代ギリシャの民主主義を支えていたもので、これこそが民主主義のキーワードではないかと、次のように記しています。「人が社会の問題解決に責任感をもって参加すること、そして権力者の責任も厳しく問い続けること。これらは民主主義にとって不可欠な要素なのです。」と。
 こうした制度が機能していたギリシャの民主主義は、森・加計・桜など様々な不正があっても、結局誰も何の責任も問われずに終わろうとしている日本の民主主義と到底同列に並べることはできないでしょう。
(5)透明性
 この稿の最初の方で、私は、日本に民主主義があるのだろうかということとの関係で、この国の重要な物事のほとんどは「私たち市民・国民の知らないところでいつのまにか決まっている」のではないかと書きました。
 この点も古代ギリシャでは全く違うのです。そこでは閉じられた場で何かを決めることは否定されていて、決定のプロセスは透明性の高いものでなければならないという考え方が徹底されていたのです。
 更に注目すべきことは、宇野教授は、このギリシャの透明性の原則との関係で、代議制民主主義にも言及して、代議制民主主義の理論をつくったジョン・スチュワート・ミルは、政府を監視するという重要な職務を担っているのが議会だとして「議会は政府のやることに公開性の光を当てること」が役割だと主張していたことを紹介しています。疑問を感じる政府の行動に対してはひとつ残らず議会が十分な説明を求めるべきであり、政府がその行動を取ることがなぜ必要なのか、理由をしめさせることが議会の努めであるとしたのです。
 こうした民主主義の大原則に照らしてみても、森友のように記録の改ざんが行われたり、重要な会議なのにその記録(議事録)を作らなかったり、開示される記録が墨塗(すみぬり)だらけののり弁状態であることが平然と繰り返されている日本に民主主義があるとは到底言えないでしょう。 
(6)自ら納得したものでなければ、どんな決定にも従わない。
 これは驚きです。私たちは多数決で決まったことには従うことこそ、みんなの意見に従う民主主義の当然の帰結だと考えています。それがそうではないというのです。これについての宇野教授の説明はこうです。
 ポリスにおける政治は、自由でお互いに独立した人々が一緒に政治を行うことを意味していて、力での強制はせず、利益によって誘導もせず、あくまで話し合いで説得して納得した上でものごとを決めるのが政治なのだと。ここにあるのは、市民1人1人の自主性・独立性を何よりも大切にする精神ではないでしょうか。

多数決に潜む問題
 実は宇野教授は、民主主義にはいろいろと問題があるが、その最たるものは多数決だと書いて、プラトンの「多数の決定だからといって正しいとは限らない」という多数決批判の言葉を引用しています。私も以前著書の中で、「多数決は民主主義の例外」と書いたことがあります。
 多数決にはどんな問題があるのでしょうか。思いつくままに挙げてみましょう。
 ①少数意見が無視されがちとなる。これは多数の横暴になりやすいということでもあります。今の自公政権のふるまいがこれですね。
 多数の側が、どうせ結果は見えているとばかりに議論そのものを十分尽くそうとせずに、早々に打ち切ってしまうというのも多数の横暴の例としてあげられるでしょう。
 ②これは宇野教授が例を挙げていることですが、2000年のアメリカの大統領選挙で、ジョージ・ブッシュ、アル・ゴア、ラルフ・ネーダーの三つ巴の争いになり、ブッシュが勝利したという事実があります。そこでの問題は、ゴアとネーダーは政策的に近く、このどちらかを支持する人たちの方が、ブッシュを支持する人々よりもはるかに多かったのに、ゴアとネーダーに票が割れてしまったためブッシュが勝利してしまったという問題です。つまり、本来多数決原理に基づいているはずの選挙なのに、その多数決の仕組みによっては、少数者が勝ってしまうという問題なのです。この問題が日常茶飯事のように起こっているのが、日本の小選挙区制下での選挙です。選挙のたびごとに、必ず誰かが、投票率・得票率などを基にして「有権者全体の15%の得票でしかないのに、(5割の投票率で、有効投票数の3割を得た候補が当選しているという場合こうなります)、3分の2の議席っておかしいだろ」とSNSなどに投稿しています。
 ③しばしば、「憲法とか平和は、票にならない」と言われ、候補たちは、経済とか福祉などの争点を掲げて選挙を闘い、そうした闘いの結果当選者が決まっていきます。その結果、世論調査では憲法改正に反対する国民が57%なのに、憲法改正を主張する政党が65%以上の議席を獲得するなどということが起こったりしています。
 第1次安倍政権のときに「戦後レジームからの脱却」と唱えて、憲法改正を正面から掲げているのに、そのことは選挙の政策では強調せず、アベノミクスによる経済の再生を掲げた結果、「異次元の金融緩和」による経済再生に期待する国民によって、自民党は、大勝しています。このような争点ずらしは、安倍自民がしばしば使ってきた手法です。

  このように、単純な多数決原理に基づく現行の選挙制度では、国民の声を正しく反映することができていないことは、今や誰の目にも明らかになっているのではないでしょうか。言い換えるなら民主主義の原理と信じられている多数決ですが、それはときには極めて非民主的な制度となってしまうという重大な欠陥があるのです。大量の棄権が生じる背景には、このことに対するあきらめ(「どうせ投票したって何も変わらない」)の思いがあるのではないでしょうか。
 実は、このこととの関係で、これまで当然と考えられてきた「1人1票」に疑問を呈する意見が登場しているといいます。
ボルダ・ルール
 宇野教授が経済学者坂井豊貴氏の著書(「多数決を疑うー社会的選択理論とは何か」岩波新書)を引いて紹介しているものです。
 さきほどの2000年のブッシュ・ゴア・ネーダー三つ巴の大統領選を例に説明すると、1位に3点、2位に2点、3位に1点と点を付ける方法で、有権者は、3人に1位、2位、3位と順位をつけて投票するのです。するとゴアやネーダーに投票する人の多くは、2位にネーダーかゴアを入れ、ブッシュを2位にする人は少ないことが予想できます。つまり、環境派の票が割れてしまってブッシュに漁夫の利を与えるなどということは無くなるわけです。これは、いわば、国民の全体としての「傾向」をできるだけ正しくすくいあげるための工夫と言えそうです。この方法は18世紀にフランスの数学者(ボルダ)が提唱したものですが、現在ナウル共和国がこの方式を取り入れているといいます。
分人民主主義   
 これは、鈴木健氏が「なめらかな社会とその敵」(勁草書房)で提唱している方法だと言います。
 各個人の考えは、経済政策では、この党、原発問題ではあの党、憲法問題ではあちらの党、環境問題ではそちらの党のそれぞれ政策が良いと別れていることは珍しくありません。「多数決に潜む問題」の③で指摘したような問題が起こるのは、このために他なりません。有権者は、真面目に考えれば考えるほど、一体どこに投票したら良いのか迷いに迷うことになります。宇野教授の紹介によると、鈴木健氏の提唱は、各個人が持つ1票を分割して、その5分の4をこの党、5分の1をあの党に投票できる仕組みにするということのようです。
 面白い発想だと思います。ただ、原典に当たっていないので、よくわからないのは、この方式で、例えば山田さんが5分の4を「G党」に投票したのはその経済政策に賛成だからなのですが、そのことを開票結果にどのように反映させる仕組みを考えているのかという点です。経済政策を支持するために山田さんが投じた5分の4の票は、結果的に、山田さんが絶対支持しないと考えていた(そのため、山田さんは、残りの5分の1を憲法改正反対の「M党」に投票した)G党の憲法改正の政策を支持することになってしまうのではないでしょうか。これは、山田さんの中では、A、B、C、Dの各政策の内、Aの政策に5の4の重要性を感じていて、Cの政策がそれに次ぐ5分の1の重要性なのに、5分の4の票を受け取ったG党の方は、Dの憲法改正を第1順位の重傷な政策としているという場合を想定するとわかりやすいかと思います。この問題をどのように解決しているのか、こんど紹介されている本を読んでみたいと思います。
世代別選挙区制
 選挙区を地域割りにせずに、世代割にするという発想です。今の日本の人口区分をあらわすグラフでは、中高年から老年世代の人口と若者世代の人口では、明らかに若者世代が少なくなっています。ですから、地域割選挙区での投票では、若者世代の声が反映されにくいという問題が起こっているのです。これを世代割にしても、高齢世代の定数は人口比例しますから多くはなりますが、それでも、若者世代の選挙区にも定数が割り振られることになり、確実に20代の代表、30代の代表が国会に議席を得て発言できるようになります。
2回投票制 
 フランスで実際に採用されている方法です。1回目の投票で過半数を超える得票の候補がいない場合、1位と2位で決戦投票するという仕組みです。この制度の利点は、1回目の投票で3割、4割という得票しか無い1位 の候補が当選してしまう(極端な場合は、残りの6割、7割の国民の意思に反する候補が当選しかねない)という不合理を防ぐことができること、1回目と2回目の投票の間に、有権者が、改めてじっくり考えることができたり、候補者サイドでも、(あのブッシュ・ゴア・ネーダーのような場合)ゴアとネーダー陣営で政策の調整をして共闘することができることにあるかと思います。

 これらは、全て、代議制を前提としつつ、その中でも、どうしたら国民の声を政治に正しく反映させることができるかを考えて提唱されているものです。
 代議制が歴史に登場したのは200年ほど前と書きました。200年経ってもまだ、その代議制について、これほどたくさんの問題が指摘され、これほど様々な解決策の提案がなされ、実践されているのです。
 私たちは、社会の仕組みは、固定されたものではなく、主人公である国民がその気になれば、変えることができるものだということを知ることが大切なのです。
 そして、社会の仕組み・ありようを変えるということになると、ここまで書いてきた代議制を前提にする選挙の仕組みの変革ということにとどまらず、むしろ、選挙を中心とした統治という考え方そのものを変えることを求める動きが世界でもこの日本でも、登場してきているのではないかと思います。

 そのことについては、次回以降に書いていきたいと思います。(続く)