「そもそも 民主主義ってなんですか?-2-

    
 古代の民主主義と言えば古代ギリシャ・アテネを思い浮かべる人も少なくないでしょう。しかし、その古代ギリシャの民主主義とはどういうものだったのか、どういう特徴を持っていたのかということになると、「古代ギリシャが民主主義の国だったということは学校で習ったけど、どういう民主主義だったのかということまでは習っていないから、よくわからない。」というのがおおかたの人の答えでしょう。

古代ギリシャの民主主義と現在の日本の「民主主義」はこんなに違う。
 そこで先ず、宇野教授に導かれながら、2500年前のギリシャの民主主義がどんなものだったのかを見てみましょう。
 まず最大の特徴は、「普通の人々が話し合いに参加し、国の政策を自分たちで決めていた」ことにあります。これは文字通り「普通の人々が直接参加し、決定する」のであって、特定の人を選出し、その人に政治を委ねる現代の代議制民主主義のような仕組みは、古代ギリシャではそもそも民主主義ではないとされていたのです。因みに代議制民主主義が生まれたのは200年ほど前になるというのですから、ギリシャ型の民主主義は、それより2300年も先輩となります。
 さきほど書いたように、私たち日本人は、代議制民主主義を民主主義の一般的な形として考えてきました。しかし、必ずしも、そうではなく、むしろ、最初に人類が生み出した民主主義社会の人々は代議制民主主義のような仕組みは、そもそも民主主義ではないと考えていたというのです。

 なぜ、民主主義ではないのでしょうか。
 それは、古代ギリシャの民主主義は「選挙」だけのことではなかったからです。そのことを理解するためには、古代ギリシャの民主主義について更にその特徴を見て行く必要があります。
(1)話し合いの場(民会)で徹底されていた1人1人の平等な発言権
 この権利(民会での発言の権利)は、政治的指導者であった将軍も、一般の市民にも平等に保障されていました。
 これはすごいことです。
 現在の日本は、代議制ですから、国会の場に参加できるのは、市民・国民のごく一部です。そのごく一部ですら、その全員1人1人に平等な発言権は保障されていません。少数政党には、その代表に数分程度の発言権(質疑権)しか認められていません。これでは、国民1人1人が自分の意見をみんなの前で発言し、みんなも、それを丹念に聞き自分の意見や考えを修正していくというギリシャの民主主義とは比較することすら恥ずかしいというべきでしょう。
 また、私たち日本では、国会に限らず、様々な会議や話し合いの場で発言する人は決まっているか、あるいは、特定の個人(例えばA氏)の発言に、A氏の発言だからというだけで、他のメンバーが追随するということは珍しくありません。しかし、こうした日本に「平等な発言権」があると言えるのでしょうか。
(2)自分たち全体のことを一部の専門家だけに委ねていてはいけない、重要な決め事は決して他人任せにしないという考え方。これは、民会だけでなく、評議会や民衆裁判でも貫かれていた考えです。評議会というのは、民会にかける議題について話し合う場で1年間の任期で500人ほどが評議員となります。民衆裁判というのは、普通の市民が裁判に参加して陪審員として判決する仕組みで、6000人の任期1年の陪審員からなる民衆裁判所が設立されていました。
 そして、重要なことは、これら評議員や陪審員はくじ(抽選)で選ばれていたことです。そうやってくじで選ばれた評議員や陪審員は、その社会的な地位や身分、経済的な貧富の差によって発言の権利が制限されたり発言の軽重が計られたりすることなく、平等な立場で発言することができたのです。
 こうしてギリシャ・アテナイの市民は、パン屋や桶職人から、仕立屋や蹄鉄屋などなどに至るまで、市民である限り、民会に参加し、いつでも評議員や陪審員になる可能性があるという自覚と責任感を持つことになっていたのです。
 何年かに1度の選挙で投票したら(あるいは何年かに1度の投票すらせず)、あとはお任せという日本の市民とは市民の意識は根本から違うのです。
(3)責任と切り離せない権利
 誰でもに発言の権利が平等に保障されていると言っても、それは、「無責任な発言」が放任されているということではありません。発言には根拠と責任が伴うのです。法に反するような無責任な発言は批判され、場合によっては民衆裁判にかけられて処罰されるのです。
 市民は、緊張感を持って参加するのであって、言い換えると誇りを持った参加であり、それは、昨今のSNSでの無責任な「言いたい放題」とは全く異なるものと言えそうです。 
(4)弾劾裁判・陶片追放
 責任の仕組みは、指導者や将軍に対して厳しいものがありました。弾劾裁判や陶片追放です。公金の不正使用などがあれば、裁判で厳しくその責任が追及されたのです。ここでいう裁判は、いうまでもなく、前記の民衆裁判です。
 陶片追放とは、独裁を行う可能性があると考える政治家の名前を陶片に記して市民が投票する制度で、政治家の独裁を未然に防ぐためのものです。
 宇野教授は、このような参加と責任のシステムが、人々の自覚と誇りをうながして、古代ギリシャの民主主義を支えていたもので、これこそが民主主義のキーワードではないかと、次のように記しています。「人が社会の問題解決に責任感をもって参加すること、そして権力者の責任も厳しく問い続けること。これらは民主主義にとって不可欠な要素なのです。」と。
 こうした制度が機能していたギリシャの民主主義は、森・加計・桜など様々な不正があっても、結局誰も何の責任も問われずに終わろうとしている日本の民主主義と到底同列に並べることはできないでしょう。
(5)透明性
 この稿の最初の方で、私は、日本に民主主義があるのだろうかということとの関係で、この国の重要な物事のほとんどは「私たち市民・国民の知らないところでいつのまにか決まっている」のではないかと書きました。
 この点も古代ギリシャでは全く違うのです。そこでは閉じられた場で何かを決めることは否定されていて、決定のプロセスは透明性の高いものでなければならないという考え方が徹底されていたのです。
 更に注目すべきことは、宇野教授は、このギリシャの透明性の原則との関係で、代議制民主主義にも言及して、代議制民主主義の理論をつくったジョン・スチュワート・ミルは、政府を監視するという重要な職務を担っているのが議会だとして「議会は政府のやることに公開性の光を当てること」が役割だと主張していたことを紹介しています。疑問を感じる政府の行動に対してはひとつ残らず議会が十分な説明を求めるべきであり、政府がその行動を取ることがなぜ必要なのか、理由をしめさせることが議会の努めであるとしたのです。
 こうした民主主義の大原則に照らしてみても、森友のように記録の改ざんが行われたり、重要な会議なのにその記録(議事録)を作らなかったり、開示される記録が墨塗(すみぬり)だらけののり弁状態であることが平然と繰り返されている日本に民主主義があるとは到底言えないでしょう。 
(6)自ら納得したものでなければ、どんな決定にも従わない。
 これは驚きです。私たちは多数決で決まったことには従うことこそ、みんなの意見に従う民主主義の当然の帰結だと考えています。それがそうではないというのです。これについての宇野教授の説明はこうです。
 ポリスにおける政治は、自由でお互いに独立した人々が一緒に政治を行うことを意味していて、力での強制はせず、利益によって誘導もせず、あくまで話し合いで説得して納得した上でものごとを決めるのが政治なのだと。ここにあるのは、市民1人1人の自主性・独立性を何よりも大切にする精神ではないでしょうか。

多数決に潜む問題
 実は宇野教授は、民主主義にはいろいろと問題があるが、その最たるものは多数決だと書いて、プラトンの「多数の決定だからといって正しいとは限らない」という多数決批判の言葉を引用しています。私も以前著書の中で、「多数決は民主主義の例外」と書いたことがあります。
 多数決にはどんな問題があるのでしょうか。思いつくままに挙げてみましょう。
 ①少数意見が無視されがちとなる。これは多数の横暴になりやすいということでもあります。今の自公政権のふるまいがこれですね。
 多数の側が、どうせ結果は見えているとばかりに議論そのものを十分尽くそうとせずに、早々に打ち切ってしまうというのも多数の横暴の例としてあげられるでしょう。
 ②これは宇野教授が例を挙げていることですが、2000年のアメリカの大統領選挙で、ジョージ・ブッシュ、アル・ゴア、ラルフ・ネーダーの三つ巴の争いになり、ブッシュが勝利したという事実があります。そこでの問題は、ゴアとネーダーは政策的に近く、このどちらかを支持する人たちの方が、ブッシュを支持する人々よりもはるかに多かったのに、ゴアとネーダーに票が割れてしまったためブッシュが勝利してしまったという問題です。つまり、本来多数決原理に基づいているはずの選挙なのに、その多数決の仕組みによっては、少数者が勝ってしまうという問題なのです。この問題が日常茶飯事のように起こっているのが、日本の小選挙区制下での選挙です。選挙のたびごとに、必ず誰かが、投票率・得票率などを基にして「有権者全体の15%の得票でしかないのに、(5割の投票率で、有効投票数の3割を得た候補が当選しているという場合こうなります)、3分の2の議席っておかしいだろ」とSNSなどに投稿しています。
 ③しばしば、「憲法とか平和は、票にならない」と言われ、候補たちは、経済とか福祉などの争点を掲げて選挙を闘い、そうした闘いの結果当選者が決まっていきます。その結果、世論調査では憲法改正に反対する国民が57%なのに、憲法改正を主張する政党が65%以上の議席を獲得するなどということが起こったりしています。
 第1次安倍政権のときに「戦後レジームからの脱却」と唱えて、憲法改正を正面から掲げているのに、そのことは選挙の政策では強調せず、アベノミクスによる経済の再生を掲げた結果、「異次元の金融緩和」による経済再生に期待する国民によって、自民党は、大勝しています。このような争点ずらしは、安倍自民がしばしば使ってきた手法です。

  このように、単純な多数決原理に基づく現行の選挙制度では、国民の声を正しく反映することができていないことは、今や誰の目にも明らかになっているのではないでしょうか。言い換えるなら民主主義の原理と信じられている多数決ですが、それはときには極めて非民主的な制度となってしまうという重大な欠陥があるのです。大量の棄権が生じる背景には、このことに対するあきらめ(「どうせ投票したって何も変わらない」)の思いがあるのではないでしょうか。
 実は、このこととの関係で、これまで当然と考えられてきた「1人1票」に疑問を呈する意見が登場しているといいます。
ボルダ・ルール
 宇野教授が経済学者坂井豊貴氏の著書(「多数決を疑うー社会的選択理論とは何か」岩波新書)を引いて紹介しているものです。
 さきほどの2000年のブッシュ・ゴア・ネーダー三つ巴の大統領選を例に説明すると、1位に3点、2位に2点、3位に1点と点を付ける方法で、有権者は、3人に1位、2位、3位と順位をつけて投票するのです。するとゴアやネーダーに投票する人の多くは、2位にネーダーかゴアを入れ、ブッシュを2位にする人は少ないことが予想できます。つまり、環境派の票が割れてしまってブッシュに漁夫の利を与えるなどということは無くなるわけです。これは、いわば、国民の全体としての「傾向」をできるだけ正しくすくいあげるための工夫と言えそうです。この方法は18世紀にフランスの数学者(ボルダ)が提唱したものですが、現在ナウル共和国がこの方式を取り入れているといいます。
分人民主主義   
 これは、鈴木健氏が「なめらかな社会とその敵」(勁草書房)で提唱している方法だと言います。
 各個人の考えは、経済政策では、この党、原発問題ではあの党、憲法問題ではあちらの党、環境問題ではそちらの党のそれぞれ政策が良いと別れていることは珍しくありません。「多数決に潜む問題」の③で指摘したような問題が起こるのは、このために他なりません。有権者は、真面目に考えれば考えるほど、一体どこに投票したら良いのか迷いに迷うことになります。宇野教授の紹介によると、鈴木健氏の提唱は、各個人が持つ1票を分割して、その5分の4をこの党、5分の1をあの党に投票できる仕組みにするということのようです。
 面白い発想だと思います。ただ、原典に当たっていないので、よくわからないのは、この方式で、例えば山田さんが5分の4を「G党」に投票したのはその経済政策に賛成だからなのですが、そのことを開票結果にどのように反映させる仕組みを考えているのかという点です。経済政策を支持するために山田さんが投じた5分の4の票は、結果的に、山田さんが絶対支持しないと考えていた(そのため、山田さんは、残りの5分の1を憲法改正反対の「M党」に投票した)G党の憲法改正の政策を支持することになってしまうのではないでしょうか。これは、山田さんの中では、A、B、C、Dの各政策の内、Aの政策に5の4の重要性を感じていて、Cの政策がそれに次ぐ5分の1の重要性なのに、5分の4の票を受け取ったG党の方は、Dの憲法改正を第1順位の重傷な政策としているという場合を想定するとわかりやすいかと思います。この問題をどのように解決しているのか、こんど紹介されている本を読んでみたいと思います。
世代別選挙区制
 選挙区を地域割りにせずに、世代割にするという発想です。今の日本の人口区分をあらわすグラフでは、中高年から老年世代の人口と若者世代の人口では、明らかに若者世代が少なくなっています。ですから、地域割選挙区での投票では、若者世代の声が反映されにくいという問題が起こっているのです。これを世代割にしても、高齢世代の定数は人口比例しますから多くはなりますが、それでも、若者世代の選挙区にも定数が割り振られることになり、確実に20代の代表、30代の代表が国会に議席を得て発言できるようになります。
2回投票制 
 フランスで実際に採用されている方法です。1回目の投票で過半数を超える得票の候補がいない場合、1位と2位で決戦投票するという仕組みです。この制度の利点は、1回目の投票で3割、4割という得票しか無い1位 の候補が当選してしまう(極端な場合は、残りの6割、7割の国民の意思に反する候補が当選しかねない)という不合理を防ぐことができること、1回目と2回目の投票の間に、有権者が、改めてじっくり考えることができたり、候補者サイドでも、(あのブッシュ・ゴア・ネーダーのような場合)ゴアとネーダー陣営で政策の調整をして共闘することができることにあるかと思います。

 これらは、全て、代議制を前提としつつ、その中でも、どうしたら国民の声を政治に正しく反映させることができるかを考えて提唱されているものです。
 代議制が歴史に登場したのは200年ほど前と書きました。200年経ってもまだ、その代議制について、これほどたくさんの問題が指摘され、これほど様々な解決策の提案がなされ、実践されているのです。
 私たちは、社会の仕組みは、固定されたものではなく、主人公である国民がその気になれば、変えることができるものだということを知ることが大切なのです。
 そして、社会の仕組み・ありようを変えるということになると、ここまで書いてきた代議制を前提にする選挙の仕組みの変革ということにとどまらず、むしろ、選挙を中心とした統治という考え方そのものを変えることを求める動きが世界でもこの日本でも、登場してきているのではないかと思います。

 そのことについては、次回以降に書いていきたいと思います。(続く)