我が意を得たり。

 近藤康太郎氏が、1昨日の朝日新聞「多事奏論」に「ふつうに違和感 はやり言葉 だから嫌いなんだ」と題するコラムを書いています。一部を抜粋すると次の通りです。
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 語感が違う。
 そう感じることがよくある。悪文ハンターである私の先輩は、「寄り添う」が大嫌いだ。「被災地に寄り添う対応が求められます。」暖房の効いたスタジオで、スーツ姿のアナウンサーがそれを言うか?
 言葉は文脈のなかでしか意味を生じない。だから「ふつう」も「寄り添う」も言葉そのものが悪いわけではない。一種のはやり言葉だ。わたしは、詩人の中桐雅夫に影響され「生きざま」という流行語が大嫌いで、使わない。最近では「自分事」とか「見える化」「パーパス」「ビジョン」など、虫酸が恥じるほど嫌いである(「走る」を打ち間違えたが、語感がいいのでママに(と、近藤氏は注書しています』)
 語感が違うと思うのは、言葉の「スタジオ感」のせいだ。①現場と距離がある。②自分の頭で考えていない。現場を見ていないから、当りさわりのない言葉で丸めとこう。自分の頭でなく、世間の考えた言葉で新味を演出……みたいな。(この「みたいな」の使い方も近藤氏自身の皮肉と思われます。)
 このように書く近藤氏は、そこからウクライナの詩人が避難民を助けるボランティアをしながら現場で語られた言葉の数々を辞書のように並べてストーリーとして記録した「戦争語彙集」の本について話を広げ、その本を日本語訳したロバート・キャンベル氏が、翻訳にあたって、「現場でつぶやかれた証言という小さな言葉の喚起力を自分でも追体験したい」との思いで、戦時下の危険なウクライナに入り、著者や証言者たちに会いに行き、証言者の1人から「今は美しい比喩の下に隠れている場合ではない」と語られていること。そして、「戦場を描く言葉は、「他の人々が理解できる範囲での閉ざされた言葉を見つけようとしている」ようだと不満をもらした。と記し、最後に「はやり言葉からは、できるだけ距離をとって生きていたい。そんな自分の直感に初めて理由を見つけた気がした。と書いています。
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 この最後の部分で近藤氏が言おうとしたことを私が正しく理解しているのかどうかわかりません。私は、この部分を、戦場の現実を人々に伝えるためには、美辞麗句や、気取った言い回しなど有害無用で、ストレートに事実そのものを、誰にでもわかる表現で伝えることが必要なのだ、という意味として理解しました。あるいは、この私の理解は、近藤氏の言わんとしたことを正反対に捉えてしまっているのかも、知れません。でも、この記事を読んだ私は、私自身が、それまでモヤモヤ、モヤモヤしていた気分に、理由を与えて貰ったように感じて胸のつかえがすっきりと取れたように感じ、そのことを大声で言いたくなり、このブログを書いています。
 「生きざま」「自分事」……そうなんです。私にとって、この手の「虫酸が走る」言葉は、何と多いことでしょう。
 例えば、
 ◎「自分らしく」「私が私らしく」……肝心なことはそのなかみではないのか。「自分らしく」が間違っているというのではない。全ての人には他の誰にも無い個性がある。だから、いつも他人の真似をしたり、他人の目を気にして「ふつう」であろうとするのではなく、自分の個性を大切に生きることはなんらけなされたり批判されたりすることではなく、大いにほめられてしかるべきことだ。だけど、そうやって自分の個性を大切に生きている人は、決して「私が私らしく」とか「自分らしく」などとは言わないと思うのだ。そういう代わりに、具体的に自分が大切にしていることや物について目を輝かせて語ると思うのだ。そうせずに、「自分らしく生きる」とか「私が私らしくいられる時間たち」などと言う人たちは、そういう情緒的な漠然とした表現で何かを言ったつもりになっているだけで、実際には具体的に語るべきなにものも持っていないのだ。
 ◎「自分探し」……これも同じ類いの言葉だ。自分をどこかに落っことしてきちゃったとでもいうのか。それとも、ボケッーとしている間に誰かに自分を持ち逃げされたとでも言うのか。
◎「侍魂」「侍ジャパン」……おいらの先祖は農民だ。大地に根を生やす農民魂を、先祖の爪の垢ほどにでも承継したいとは思っても、人殺しで専制支配者だった侍の魂などまっぴらごめんだ。侍魂などと変な民族主義的な色をつけて言わなくてもスポーツマン・シップあるいはスポーツマン魂という方がよっぽど良いではないか。
 ◎「絶対に負けられない闘いがそこにある」……「絶対に負けられない闘い」だったはずの闘いに何度負けてるのか。いいかげんこういう物々しい物言いはやめたらどうか。こういう物言いが、スポーツをスポーツとして国籍や人種に関係なく純粋に楽しむのでなく、フーリガン的振る舞いを煽るだけではないのか。
 ◎「推し」……多分、まだ人気上昇途上の人(または物)を「推し」ている自分はその人(または物)のスポンサーかなにかにでもなったような一種の優越感を感じているのだろうけど、肝心の推されている相手は、あんたが「推し」ていることなど……知らんけど

 このくらいにしておこう。これ以上続けたら……おーっ、考えるだに恐ろしい!。「ふつう」の人々から総攻撃をくらっちゃう。

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