穴水先生の思い出

 能登地方の巨大地震、羽田の航空機衝突事故、そして電車内での若い女性による刃傷事件……。地震は天災とは言うものの、ここ数年、震度6や震度5の地震を繰り返していたのに、大量の家屋倒壊を防げなかった事実の背後には、老朽建物の耐震化が51%に止まっているという社会問題があり、羽田の事故は明らかな海保機側の管制指示の見落とし(あるいは、無視?)という人災であり、刃傷事件の動機はまだ明らかではないにしても、正月早々に包丁を2本も持って電車に乗り、不特定多数に切りかかるという行為の背後には深刻な理由があることを窺わせる。要するに、これら全てに人災の側面が指摘できるのだ。                       

  それでも、大阪万博をやめないのですか。 

  それでも、ズブズブの軟弱地盤にこれから更に巨費を投じ続けるのですか。

  それでも、国民の幸せのためではなく、自分たちの利権や、地位や私利私欲のために行動している「政治屋たち」を国会に送り続けるのですか。    

 話はコロッと変わります。そんな思いで鬱々としながらニュースを見ていたら、石川の穴水の被災状況を報じていました。私は、石川県には、まだ若い頃に、輪島の裁判所に何回か通った程度で、それほど深い関わりは持っていないのですが、その当時から、輪島に通う途中で「穴水」という地名を見聞きする度に、何か妙に懐かしい思いをしたものですが、今回も、ニュースで「穴水」が出てくる度に、同じ思いが湧いてくるのです。それは、私の弁護士生活のスタートの時の記憶から来るものなのです。私は22期ですから、司法研修所を卒業したのは1970年です。この年、水面下で進行していた司法反動が、公然と牙を剥いてきました。3名の任官志望者に対する任官拒否です。3名の経歴を見ると、それは明らかに、思想信条を理由とする任官拒否でした。それまでの、修習生に対する「修習生心得」によるしめつけや、裁判官に対する「東京地裁方式」(「発言禁止」「退廷」を連発して、傍聴人はおろか、被告人すらいなくなった法廷で審理を続ける)の事実上の強制という「しめつけ」による反動から、そもそも、民主的・良心的な考えを持つ者に対しては裁判所に入る門戸を閉ざすという反動へと、事態は飛躍的に深刻なものとなったのです。そうした事態に、私たち22期の修習生は、反対運動に立ち上がり、最高裁に対する抗議行動を法律家の中や、市民の中に広げる闘いを進めました。「穴水」弁護士との出会いは、法律家に対する取り組みを進めている中でのことでした。まだ、研修所を卒業する前で、卒業後に所属する弁護士事務所すら決まっていないのですから、「法律家に対する取り組み」と言っても、どこからどうやっていけば良いのか、五里霧中の中で、まずは、足元の東京・第一東京・第二東京の3つの弁護士会所属の先生方にも、声を上げて貰うことから始めようと、任官拒否に抗議する「アピール」の賛同呼びかけ人になって貰うための取り組みを進めたのです。どこの馬の骨かもわからない若造の修習生が、一面識も無い先輩弁護士を訪ねて、おこがましくも「オルグ」しようというのですから、考えて見れば、ずいぶんな話です。そうやって訪ねた相手の1人が穴水弁護士でした。面会を求めても会ってすらもらえない弁護士や、会ってはいただけても、こちらの話をろくに聞いてもらえない弁護士などが少なく無かったのですが、穴水弁護士は、事務所の同僚弁護士たちも呼んでその人たちと一緒に、私の話に真剣に耳を傾けてくださり、「アピール呼びかけ人」になることに、二つ返事で同意してくれただけでなく「どうやって、回っているの?」「名簿を見て手当たり次第ぶっつけです」「そう。それは大変だね。」そういうと、メモを取るように言い、何人かの弁護士の名前と連絡先を挙げてくれて、「僕の方からも、連絡しておくから、この人たちのところも回ってごらん。」と言って励ましてくださったのです。穴水弁護士との接点は、これだけです。これだけでも、私にとっては、あのとき回った多くの弁護士たちと異なり、決して上から目線で、私を見ることなく、暖かく励ましてくださった先生の記憶は、その後今に至るまで色あせることなく残って、「穴水」という地名を見る度に、当時の暖かい気持が、心の中によみがえってくるのです。

    

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