続・ムラブリー帝国的生活様式とは何か


「構想」と「実行」を自分のものとして取り戻す。
 斎藤幸平さんが「コモンの再生」と言っていることをムラブリの著者は、ムラブリと共に生活することで獲得しました。前回私が、「ムラブリ」とは違うとして紹介した「ヌアー族」。その著者は、彼の助手として彼のヌアー族研究を支えているヌアー族の人を、本の中で「召使い」と書いています。他方ムラブリの著者は、村で一緒に生活するムラブリの人々を家族と考えています。私は、そこに両者の決定的な違いを見るのです。

 それはともかくとして、「コモンの再生」、すなわち帝国的生活様式から抜け出した生活様式による社会の建設という斎藤幸平さんが私たちに投げかけた課題を、ムラブリの著者は(15年かかったとはいえ)軽々と超えてしまったように見受けられます。

 でも、それは決して容易なことではないと思うのです。なぜなら、私たちに染みついた「帝国的生活様式」は、一朝一夕では拭いきれないほどに深く深く染みついているからですし、私たちを取り巻く社会は、朝から晩まで、私たちを帝国的生活様式に駆り立てているからです。

●「それ食え、やれ食え」とばかりに、朝から晩までおいしそうな料理が画面に登場します。
●平均家族の人数を考えたら、そんなに広い家が本当に必要なのかというような豪華な家やマンションの広告が次々に放映されます。
●東京駅周辺や銀座をこれまで以上のコンクリートジャングルにしたり、神宮の森を伐採してタワマンを作ろうとしたり、日本中で、まだ十分に使える建物を取り壊して次々とタワマンを建築している大企業たちを、人気の俳優や女優たちが登場するCMが、「SDGsを推し進めている」かのように描きだしていきます。
●華やかな衣装に身を包んだ女の子たちが、海外の海や山や川で遊ぶ様を軽快なリズムをバックに描き出して、人々を海外旅行に駆り立てています。
●1つや2つではなく、いくつものバッグやシューズを持ち、何着もの服を持ち、家の中は物であふれている。それでもなお足りずに、新製品が出れば行列をつくって買う。テレビや雑誌は、そうした姿を報じ、更に熱気をあおります。
●「……よくない?」「よくない?」と女性タレントが腰をくねらせながら購買意欲を刺激したり、インフルエンサーが、「ほらね!簡単でしょ?」と新製品の新機能を実演してみせるCM。それを手にしたあなたは「誰よりも先に新製品を手にした。」ことに満足する。
●競輪・競馬・競艇・宝くじなど、射僥心をあおるギャンブルのCMの異常な多さ。
●企業が社員の全ての行動を24時間把握することを売りにするIT技術のCM…これを見ても人々はジョージオーウェルの「1984」を想起しないのでしょうか、多分しないのでしょうね。もし国民が、敏感にそういう連想を持つなら、マイナカードに対してもっと深刻な反対行動が出るはずですから
●香害をまき散らす商品のCMでは、映像の中の部屋は、さながらお花畑。
●原発やマイナカード推進などの政府の政策のCM。
●画面を埋め尽くす色鮮やかな背景セットに囲まれて、きらびやかな衣装に身を包んで踊るタレントたち。

 私には、こうしたことの全てが、グローバルサウスで暮らす人々の無惨としか言いようの無い犠牲のもとで可能になっている「帝国的生活様式」に私たちを駆り立てていると思えるのです。
 前回紹介した「ムラブリ」の著者の伊藤雄馬氏がムラブリの集落に入った時に最初にムラブリから指摘されたことの一つは、伊藤氏が持っている物の多さでした。とは言え、スポンサーも無く単身集落に入っていった伊藤氏が持っていくことができる品物など、さほどのものではありません。それでもムラブリから見ると、それは驚くほど沢山の品々なのです。伊藤氏の15年に亘るムラブリ研究は、その沢山の品々を一つ一つ「これは自分にとって本当に必要なものだろうか」と吟味しながら切り捨てていき、そうすることによって、伊藤氏自身がムラブリと一体化していく過程だったのです。
 前回私は「ムラブリ」から次の箇所を引用しました。
 『ムラブリの身体性から見るぼくの日常は、これまでしているからとか、他の人もそうだからという理由だけで、「なんとなくしている」ことで埋め尽くされていた。自分の心からしたいことがどれだけできているのだろうか?何不自由ない生活を送っているはずなのに、心からしたいことから遠ざかっているかのように思えるのはなぜだろうか?
 (中略)ムラブリは、生きていくのに必要なことをぼくより知っていて、しかもそれを自分で出来ているように見えた。森の中で寝床をつくり、食べ物を森から与えられ、川の水や湧き水を飲み、服の代わりに葉っぱに身を包んで、歌うように話ながら生きる。(中略)10代になれば、ほとんどのムラブリは寝床を自分の手でつくれるし、資源がある限りは食料や薪を森から調達する術を身につけている。別に学校で教わるわけではない。必要だから身につくのだろう。一方ぼくは、30数年も生きてきて、家もつくれないし、服もつくれない、食べ物も自分で調達できない。家の作り方をしらないので、アパートに住んで家賃を払っている。布を織って裁縫して服をつくることもうまくはできないので、お金で買っている。清潔なキッチンで料理することはできるけど、食材は買ってこなければならず、野原に行っても食べられる草とそうでない草の見分けもつかない。動物を捕まえても屠殺することもできない。自分を生かすために必要なスキルはすべて外注していきている。
  自分の生を外注している間は、ぼくはお金に頼らざるをえない。(中略)生活するためにお金が必要であり、そのお金を得るために研究している限り、ぼくはぼくの本当の関心へと向かえない。』

 ここには、ムラブリの社会と比較した、私たちの社会の違いがくっきりと描かれています。 
 物にあふれ、お金さえあれば、世界中を旅行することも、地球の反対側の珍味を味わうことも、有名ブランドで身を包むことも、欲しいものは何でも手に入る。そう!それこそが帝国的生活様式なのだ。だが、同時にそれは、お金がなければ、自分では何一つできないという生活なのだ。だから、人々はお金のために、自分を殺してでもあくせく働かなければならなくなり、更には、売春したり、闇バイトに手を出したりしてしまうのだ。
 私は、こう思うのです。
 私たちを駆り立てている「帝国的生活様式」の正体は、「つくられた国民総狂躁状態」ではないのかと。
 それは、
 意図的に創られた狂躁状態の中で浮遊し踊り騒ぎ続けることによってのみ安心感を持つことができる社会
 であり、
 次々に登場する商品や次々に紹介される「新しい生活スタイル」を追いかけるように仕向けられ(そうした「新」商品を身につけているとかっこよく、身に着けていないと「古い」「ダサい」と言われ、そうした「新しい生活スタイル」で生活している人はかっこよく、そうでないと、「古い」「ダサい」と言われる)、
 こうして、そこから外れ、そこから遅れを取ることが、まるで孤独と孤立のただ中に突き落とされるように感じさせられる社会
 では無いのかと。
 だから「狂躁」なのです。
 ものの本によれば「狂躁」とは「理性を失った騒ぎ」とあります。

 例えば、何万という観客が、細長い風船(スティックバルーン)2つを持って、一斉に揃ってそれをぶつけてバンバンと音を立てるという光景、かって南アフリカの真似でブブゼラが持ち込まれた時には、それでもそれに違和感を持つ人たちも多く、やがてブブゼラは消えていったのに、今やそれとさほど変わりの無いスティックバルーンでのバンバンバンには違和感を持たれなくなっているのです。むしろ試合会場に行って、バンバンバンと鳴らす隣の客に「うるさいなあ」などと言ったら、袋だたきに遭いかねません。私はあの騒音もそうですが、あの大量のバルーンはSDGsに反しないのかなぁと気になってしまうのです。でも、あの観客たちは、そんなことは考えずに、「みんなで一つになって応援している」という状態に夢中になっているのでしょう。
 だから「狂躁」なのです。
 「帝国的生活様式」を生み出す膨大な消費は、国民をある種の集団ヒステリー状態に陥らせることで実現可能なのです。
 資本は「無限に増えていく消費(=拡大再生産)」を生み出すために日夜、私たちに対して帝国的生活様式に駆り立てるための働きかけをやめず、私たちをそうして作り上げた社会によってがんじがらめに取り囲んでしまっているのです。

電通などの広告宣伝会社が巨大化し、単なる「広告屋」ではなく、選挙・オリンピック・政党の宣伝等々社会のあらゆる場面で、人々を巧妙に操る(あやつる)存在になっているという事実が、その背後にはあるのです。かって、高倉健と田中邦衛が「CM出演の是非」について話し合ったということがあり、出演するCMのなかみについてきちんと調べることが大切ではないのかという話になったと、何かで読んだ記憶があります。もう何十年か前のことです。その頃までは、まだ、CMに対して、そういう節度ある姿勢が取られていたということなのでしょう。しかし、今や、それまで良心的な俳優と思っていた人が原発推進のための電事連のCMに出演したり、ちょっと世間を斜めに見てする発言の切れ味に好感を持っていたタレントがマイナカード推進のCMに出演したり、えん罪事件を追及するドラマで主演を務めた女優が、競馬の宣伝をしたり、農家を高額な農機具のローン地獄に陥れつつ成長し、アスベストでたくさんの中皮腫被害者を生み出した企業のCMに出演するなど、「ブルータスお前もか!」と言いたくなるほど、俳優や女優や、タレントたちは、軒並みに番組の選択なしにCMに出演するようになっているのです。それだけ広告会社の力が強くなっているということなのでしょう。
 ですから、そういういわば四面楚歌状態の中から抜け出して自分を失わないでいるためには、自分を周囲の物事に流されないで保つしっかりした意思の力と、資本が用意したいつわりの繁栄(=「浮ついた狂躁」)と無縁の生活をしても決して孤独や孤立を感じないという心の豊かさが必要になるのではないでしょうか。

コメントを残す