ムラブリ

  

 またひとつ素晴らしい本に出会いました。「ムラブリ」(出版2023年2月28日。集英社インターナショナル。伊藤雄馬著。)です。
 ムラブリとは、ラオスやタイの山岳地帯に住む少数民族で、表紙にあるように文字も暦も持たない狩猟採集民でもあります。新聞の書評欄の「国家支配を嫌い山に逃れた人々」との言葉にひかれて、購入したものですが、「文字も暦も持たない」「狩猟採集民」「国家支配を嫌い山に逃れた」等々という表現から、おそらく、みなさんは、貧しく、非文明的で、不便で不自由極まる生活を送っている「未開の民」を思い描いたのではないでしょうか。私もそうでした。
 実は、私がこの本の存在を知って即座に購入したのは、「人新世の資本論」以降、私にとっても、重要な問題意識になっている「コモンの再生」との関係でこの本が取り上げているムラブリの社会を知ることが問題を考えるヒントを与えてくれるのではないかという期待からでした。
 そうした私の期待の中には、ムラブリについて私が最初に思い描いた「未開の民」というイメージが潜んでいました。つまり、「未開の民←→原始共産制」というイメージです。
 「コモン」の参考という意味で、この本は期待以上でした。同時に、それは、私のそれまでの想像を大きく、本当に大きく超えるものでもありました。
 まず、この本は、言語学者が、ムラブリについて約15年にわたるフィールドワークの結果を記したものですが、一般の学術書とは、その叙述の仕方から、書かれている内容に至るまで、およそ全くと言って過言でないほど異なっています。そのことを著者は次のように書いています。
 『この本は論文ではない。しかし、紛れもなくぼくの研究成果だ。より正確に言うとぼく自身の在り方やその変化を、ぼくのムラブリ語研究のもっとも重要な研究成果の一つとして認めたいと感じ、またそれをみなさんに届けたいと願っている。』と。

 


 この本より先に、この本を手にとったと同じ問題意識で読み始めた「ヌアー族」(E.E.エヴァンズ=プリチャード著。平凡社ライブラリー。2023年3月24日刊)という本も、学者(こちらは言語学者ではなく人類学者ですが)がナイル川上流のサバンナや沼地に住む人口約20万人のヌアー族に対するフィールドワークに基づく、これらの人々の生業形態・政治制度・文化・生活・社会構造等を記すものです。
 2つの本を比較するとその違いは歴然としています。「ヌアー族」は、まさに典型的な学術書あるいは学術論文なのです。おそらくそのために、3月の終わりに手にしてから、私は、未だに読了できないでいます。つまり、難しいのです。何が難しいかというと、ともかく、人類学の専門用語が文章の中に膨大に登場してくるのです。そして、学術論文であるから、当然かもしれないけど、ヌアー族を対象としてできるだけ詳細かつ正確に客観化して叙述しようとしているのです。
 この点が、「ぼく自身の在り方やその変化」を「ぼくのムラブリ語研究のもっとも重要な研究成果」として読者に伝えるために本を書いたという「ムラブリ」との決定的な違いなのです。伊藤氏のそれは、対象の客観化ではなく、対象と自分との一体化であり、それは対象の主観を自らと一体化させることによって、対象の主観をそのまま取り込むものと言っても過言ではありません。
 伊藤氏が、そのような姿勢と考え方で、ムラブリ社会の中に入っていったことで、文字も暦も持たない狩猟採集の民の社会が持っている驚くべき豊かな内実が深く捉えられたのではないかと思います。
 先に私は、「未開の民←→原始共産制」というイメージと書きました。そうしたイメージに潜んでいるのは、原始共産制で確かに平等かもしれないけど、未開ゆえに貧しく、不自由で、いつも生きるために精一杯な社会というイメージです。このイメージそのものが根底から崩されるのです。
 当初、伊藤氏は、言語学者として調査票片手に、ムラブリの言葉を採集しようとして努力しますが、なかなか調査は進展しませんでした。それが、あるとき1人の人類学者と出会って、一緒に村に入ったときに、それまでの自分はムラブリ語ばかり見ていて、ムラブリのことは何も見ていなかったということに気づき、ムラブリと共に生活しながら、ムラブリ自身について知る機会を増やしていったことで、調査票を使わなくても、ムラブリ語をすらすら使えるようになり、それとともに、ムラブリ社会の中で「家族」として迎え入れられるようになったのです。そして、そのことは、伊藤氏自身がムラブリの感性や身体性を獲得していくことを意味していたのです。そうなった伊藤氏は次のように書いています。
 『ムラブリの身体性から見るぼくの日常は、これまでしているからとか、他の人もそうだからという理由だけで、「なんとなくしている」ことで埋め尽くされていた。自分の心からしたいことがどれだけできているのだろうか?何不自由ない生活を送っているはずなのに、心からしたいことから遠ざかっているかのように思えるのはなぜだろうか?
 (中略)ムラブリは、生きていくのに必要なことをぼくより知っていて、しかもそれを自分で出来ているように見えた。森の中で寝床をつくり、食べ物を森から与えられ、川の水や湧き水を飲み、服の代わりに葉っぱに身を包んで、歌うように話ながら生きる。(中略)10代になれば、ほとんどのムラブリは寝床を自分の手でつくれるし、資源がある限りは食料や薪を森から調達する術を身につけている。別に学校で教わるわけではない。必要だから身につくのだろう。一方ぼくは、30数年も生きてきて、家もつくれないし、服もつくれない、食べ物も自分で調達できない。家の作り方をしらないので、アパートに住んで家賃を払っている。布を織って裁縫して服をつくることもうまくはできないので、お金で買っている。清潔なキッチンで料理することはできるけど、食材は買ってこなければならず、野原に行っても食べられる草とそうでない草の見分けもつかない。動物を捕まえても屠殺することもできない。自分を生かすために必要なスキルはすべて外注していきている。
 自分の生を外注している間は、ぼくはお金に頼らざるをえない。(中略)生活するためにお金が必要であり、そのお金を得るために研究している限り、ぼくはぼくの本当の関心へと向かえない。』 
 お気づきでしょうか。ここで伊藤氏が、自らの15年にわたる体験によって身につけた身体性を通して、現在の私たちの生活に感じた「おかしなこと」の正体は、斎藤幸平氏が「コモンの自治論」(集英社2023年8月30日)で、現状の自治がなぜこれほどまでに弱体化しているのか、なぜ私たちの生活が貨幣や商品に振り回されるようになっているのかを、マルクスを引きながら、解き明かしている「構想」と「実行」の分断と、それによる受動的で他律的になってしまっている現代の人々の姿そのものだということなのです。
 資本主義は、「構想」と「実行」を分離し、「構想」を資本が独占し、「実行」を分業で細分化することで労働者を細分化して支配していく、という事実を理論によってではなく、ムラブリ語研究で身につけた身体性によって体得していく。この本が並の学術書とは明らかに違うものと感じるのはそのためです。
 ともかく、ユーモアにあふれたこの本を是非読んでみることをお勧めします。

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