右を向いても、左を見ても

      

 前回の記事(「絶望の中の希望」)で私は、鶴田浩二の歌(傷だらけの人生)の
 「生まれた土地は荒れ放題、
  今の世の中、右も左も、真っ暗闇じゃござんせんか
  何から何まで真っ暗闇よ」
という歌詞を引用して、半世紀前のこの歌の描き出した世相が今の絶望的とも思える世相と重なることを指摘しました。
 そういう世の中になったのは、「無自覚な国民」のせいではなく、国民こそが、最も絶望しているからなのであって、国民のそういう絶望はこの社会の「上の方」にいる者たちが、少数者や底辺の人々が声を上げようとすると、それをよってたかって足を引っ張ったり、押さえつけてきたことによって、国民の中に植え付けられしみこまされた「あきらめ」によるのだと書きました。

 この部分で私が言おうとしたことが、果たして読者の皆さんに良く伝わったかどうか、はなはだ心許(こころもと)ないものがあるので、今日はそのあたりについて、もう少し書いてみます。
  2014年に私は、朗文堂から出版した本「わたくしは日本国憲法です」の中で、民主主義を阻害するものの一つとして「根回し」について書きました。私が、「根回し」を、民主主義を阻害するものという視点から取り上げたのは、世間一般には、「根回し上手」を政治的に優れたものとして取り上げる風潮があると思うからです。誰だったか記憶が定かではありませんが、私がまだ若かった頃、新しく総理大臣になった人物を評して新聞が「根回し上手で知られている」と肯定的に紹介したことがあり、当時そのことに私は、強い違和感を感じたものです。
 上記の本の中で、私は根回しについて次のように書きました。
 「ほとんどの場合根回しは、集団の中の主立ったメンバーの間で事前に意思統一を図るために行われているのが実情で、この場合、根回しの狙いと意図は、会議の場で少数意見を効果的に封じるということにある。
  このような根回しがおこなわれたあとの会議は、事前にお膳立てを整えて決まっている方針を確認するだけの単なる儀式となってしまい、そこでの民主主義的な討議など望むべくもないことになるのだ。
  困ったことに、労働組合、被害者団体、市民団体、消費者団体などのいわゆる民主団体といわれる団体の成員であるほど、このような根回しをしている。これらのひとにはそれが極めて非民主的なことをやっていることだという自覚がまったく無く、それどころか自分たちの”民主主義的な”(あるいは”正しい”)方針を全体のものにするためにやっている極めて正当で有意義な行動だと考えているのだ。
  その結果何が起こったか。そうやって会議の場で発言を封じられ、切り捨てられた少数者たちは次第にその団体そのものに嫌気がさすようになって、その団体から離れていくことが起こったのだ。
  また、そのような会議を続けて行くことで、その団体の方針は柔軟性や豊かさを失い、硬直化(こうちよくか)して偏狭(へんきよう)なものになり、魅力を失っていったのだ。」

 本の中でも書きましたが、私は根回しの全てが悪いとは考えていません。根回しには大きく分けて2つの種類があるように思います。
 一つは、少数意見を封じるために会議の前にあらかじめ身内の間で意思統一をはかり会議の進め方について打ち合わせをしておくための根回しです。この場合の根回しは主に自分と同じ意見の者や、自分を支持する者に対して行われます。
 もう一つの根回しはこれとは正反対に、大勢の人の集まる会議の場では思うように自分の意見を言えないようなどちらかというと引っ込み思案の人たちの声を事前に十分汲み取り、そういう人たちの声を会議の場にきちんと反映させるための根回しです。実は、優れた「オルガナイザー」と言われるような人たちは、こういう根回しをしっかりとやっています。こういう根回しは、その組織や団体の結束を固め、その成員たちの積極性を引き出していきます。私は、以前ある地方の飯場住まいの未組織の建設労働者を組織化する場面に立ち会ったことがありますが、その時のオルガナイザーは、まさにこういう人でした。彼は、その飯場に泊まり込んで、1つ1つの部屋に入っては、じっくりとそこにいる労働者の話を聞き届ける作業を丹念に続けたのです。そうやって、みんなから聞き取っためいめいの思いを、全体が集まった場で、スパッとわかりやすい言葉にした要求として突き出したことで、それまで組合のクの字も知らなかった労働者たちの気持ちを一瞬のうちに一つにまとめてしまったのです。
 これをボトムアップの根回しと呼ぶとするなら、世間一般で行われている押さえ込みのための根回しは、その正反対の統制のための根回しということになるでしょう。
 重要なことは、こういう「押さえ込み」は、押さえ込まれた人たちの気持や意欲をくじき、それが続くことによって、そういう人たちを「ダメ人間」にしていくということなのです。

 伊坂幸太郎氏がこの夏に出した新しい小説(「逆ソクラテス」)の中で書いている「教師効果、教師期待効果」の話を読んだとき、私は、さすが小説家だ、うまく書くものだと思ったものです。そこで書かれていることは根回しではないけど、問題の本質は、私がここで根回しの問題として取り上げていることと同じだと思うのです。教師期待効果というのは、教師がこの生徒は将来、優秀になりそうだぞと思って接していると(絶対というわけではないが)実際にそうなる可能性が高いということで、「普通の生徒が問題が解けなくても気にしないのに、優秀になるぞと期待している生徒が間違えたら励ますかもしれないし、熱心に問題を一緒に解いてくれるかもしれないし、何かやり遂げるたびにたくさん褒める可能性もある。そうすることで生徒は実際に優秀になっていく。」他方でその逆に、この子はダメな子だって思い込んで接していたら、その生徒が良いことをしても、たまたまだなって思うだろうし、悪いことをしたら、やっぱりなって感じるかも知れないというものだと言い、小説はこのことを1つの軸に氏の小説特有の痛快な話が展開していくのです。それはともかく、ここにあるのも、長い時間をかけて人を「ダメ人間」にするものは何かということを考える1つの重要な手がかりではないでしょうか。
 このことは、体育会系の部活などでかっては一般的だった監督やコーチが部員や生徒を「バカヤロー。お前なにやってるんだ!」「やめちまえ!」「校庭うさぎとびで一〇周!」等々と怒鳴りまくる「指導」が、批判されるようになり、いまでは、生徒や選手を信頼し、その自主性を尊重し、ほめて育てる監督やコーチのチームほど今年の夏の甲子園の慶応高校野球部の優勝のように好成績を挙げることが実証されるようになっていることからも理解できるはずです。

 垂直的・権力的な組織原則を正当化する論理に「闘いだから」(軍隊のような組織原則が必要なのだ)というものがありますが、そうした考えが誤りであることを慶応の結果が示しているのです。

 画期的な本の出版「コモンの「自治」論」

 話が飛ぶと思われるかも知れませんが、これもこの夏に出版されたばかりの「コモンの『自治論』」で、斎藤幸平氏は権力を握ることによって社会を変えようとする考え方と行動を「政治主義」あるいは「制度主義」と呼んで、「なぜ、それが問題なのかと言えば、トップダウン型のやりかたでは、『構想』と『実行』は分離されたままで、民主主義や『自治』のために必要な私たち(1人1人)の能力は回復しない」から、それでは世の中は変わらない、「それどころか、『上から』の改革を効率良く推し進めるために、民主主義は、犠牲にされ、最終的には、自由や平等が今よりも失われてしまう危険性があると書いています。ここで言っていることは、”根回し”や”教師期待効果”の例を引いて私が言おうとしていることと同じ問題だと思われます。つまり権力を握った者によるトップダウン型の変革は、民主主義がこれほどまでに弱体化し危機的状況になってきた根本の問題で、それは、自ら考え(構想し)、自ら、それを実行していくという「自治」の力を1人1人の国民から奪っていくことになるからだというのです。
 斎藤氏は言います。「そもそも、制度や政策をいじっただけでは社会問題は解決しません。…結局、『自治』をする能力が市民社会の側に欠けたままでは、何をやっても事態は改善しません。制度を変えよう、法律を変えよう、政治家を取り替えて政策を変えようというトップダウン型の変革だけでは、いつまでたっても社会は変わらないのです。」と。

 第2次対戦後、世界の人々は、チャップリンの名画『独裁者』での有名な演説のように、二度と戦争は繰り返すまい、二度と独裁者たちに民主主義を踏みにじらせまいと決意したはずでした。でも、その後の冷戦時代から現在に至るまでの長い時間が経ちますが、東側(「社会主義圏」)と西側の、いずれにおいてもチャップリンがあの演説で描いたような社会、日本でいうなら日本国憲法が思い描いたような社会は、実現していません。
 そのようなことになってしまった原因・理由について、斉藤氏は、どちらの陣営においても、その社会のありようが、市民・労働者・国民の「自治」を掘り崩してしまったからだと言います。つまり、東側陣営(社会主義陣営)の場合は、中央集権的な社会体制という垂直的な組織原則が、そして西側陣営の場合は、官僚制の肥大化という問題によって、市民・労働者・国民の「自治」能力を奪い、掘り崩してしまったことによって、人々の・人々による・人々のための社会をつくるために必要不可欠なそうした社会の担い手となるべき人々を切り捨て・切り離してきてしまったからだと指摘します。
 そもそも、人々にとって社会が生きづらく、息苦しいものになり、人々が、社会の中でただの歯車や物になっていくのは、資本主義の下で「構想」と「実行」の分離(考え決めるのは上の人たちで、一般の労働者・市民は、上の人たちが考え決めたことを言う通りに実行するだけの存在になること)が推進されていくこと(マルクスの言う「疎外」)によりますが、東側陣営の社会でも、西側陣営の社会でも、かたや中央集権的な社会体制での垂直的組織原則が、かたや、官僚エリートたちによる官僚主義的な組織作りが、そうした動きを一層加速していき、その過程で労働者たちの自治組織が失われていったことが原因であるというのです。つまり、社会を貫く「上から下への」垂直的な組織原則こそが、労働者市民を自治の担い手であることから切り離してきたのだというのです。垂直的組織原則とは、要は、中央の下に団結し、一糸乱れぬ行動を取ることこそ、国や組織のあるべき理想的な姿だとする考え方と言ってもよいでしょう。
 まさに「右(西側陣営)を見ても、左(東側陣営)をみても真っ暗闇」ということになります。
 ですから、今の地球規模の危機状況を打開するために、何よりも必要なことは、垂直的組織原則や官僚主義を徹底的に克服して市民・労働者・国民の「自治」を生み出し、定着させ、広げていくことなのです。そして、それは、斎藤幸平氏が「人新世の資本論」以降繰り返し語っている「コモンの再生」にほかなりません。
 「コモンの『自治』」は「人新世の『資本論』などで繰り返し語られてきた「コモンの再生」について、精神科医・現代思想研究者の松本卓也氏、政治学者白井聡氏、文化人類学者松村圭一郎氏、杉並区長岸本聡子氏、社会学者木村あや氏、歴史学者藤原辰史氏らのそれぞれの専門分野における「コモン」をめぐる実践からの教訓を報告する優れた論文を一冊の本にまとめたものです。
 つまり、一つ一つの論文は、今現実に「自治」の力を取り戻した人々によって存在している「コモン」についてのリポートなのです。
 私には、この本の出版は「人新世の『資本論』」の出版を超える事件ではないかとすら思える重要な論文たちのように思えます。
 ここに書かれていることを本気で学び、これからの自分たちの実践を根本的に変えていくのか、それとも、これを無視して、これまで同様に、組織間の数合わせの議論や、権謀術数の渦巻く政治的駆け引きに明け暮れ続けるのか、それは、今を「新しい戦前」にしてしまうのか、「新しいコモンの幕開けの時代」にするのかを分けるものになると思うのです。(つづく)

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