絶望の中の希望

 今年の夏の事務所ニュース(常磐木60号)に、私は「絶望の中の希望」と題した一文を掲載しました。私としてはかなり思い切ったことを書いたつもりで、多くの方々からの「否定的な反応」を覚悟していました。なぜなら、それは読みようによっては、戦後の「民主主義」及び「民主主義運動」を全否定しているように受け取られかねない内容を持っていたからです。
 しかしながら、ニュースを発行してから2ヶ月近く経ちますが、今のところ、ほとんど「反論」「批判」には接していません。
 これはおそらく、私の一文が、舌足らずで、私の言おうとしたことが十分に読み手に伝わらなかったためかと思います。
 そこで、このブログにも、同じ文章を再掲するとともに、私が「舌足らずだったのではないか」と思うポイントについて、次回以降順次補足していきたいと思います。皆様の積極的な反論・反応を期待します。


絶望の中の希望
 ひどい世の中になったものです。戦争が終わった年に生まれ、これまで七七年間、憲法の平和・人権・民主主義を大切に生きてきたつもりですが、それが今や風前の灯火(ふうぜんのともしび)です。
 国会は、空洞化して政府が次々と打ち出す、国民の利益に背き、憲法の平和主義に背き、基本的人権を踏みにじり、国際主義の精神にも背く数々の法案や施策を、まともな議論もしないまま、ひたすら追認するだけになってしまいました。
 ウィシュマさんの悲惨な被害を繰り返させないためであったはずの入管法改正は、その正反対の難民切り捨てという方向での「改正」になってしまいました。
 差別をなくすために作られるはずだったLGBT理解増進法は、差別温存法にされてしまいました。
 原子力基本法の改定を含む脱炭素電源法は、フクシマの悲惨な原発事故の教訓を無にし、露骨に原発推進へ舵を切ってしまいました。
 マイナンバー法の「改正」は、任意であったはずのマイナンバーカードを事実上強制するための健康保険証の廃止や、マイナンバーの適用範囲を事実上政府が無制限に広げることが出来るようにしてしまいました。
 敵基地攻撃を容認する安保3文書の改訂・防衛装備品輸出3原則を骨抜きにする防衛産業強化法などなど、与党とその補完勢力によって、戦争ができる国にしゃにむに進もうとする動きが歯止め無く進められています。
 自民党が運動方針で労働組合のナショナルセンターとの「連携強化」を掲げ、これに対して会長は「自民党から大事にされている気がする」などとと公言しています。
 
 こうして、徹底して後ろ向き(復古主義的)で、戦後、憲法の思想を根付かせるために、たくさんの人々の良心が積み上げてきた貴重な成果を全てぶち壊してしまおうとしているのです。
 そして、そういう一連の法改正と数々の施策は、地球温暖化など地球環境が待った無しの危機状態になっているという中で、それらに対する対策を講じるための議論を後回しにして行われているのです。
 こうした「とんでもない」政治が、安倍政権、菅政権、そして岸田政権と脈々と続いているのです。それなのに、政権支持率は一向に下がらず、野党支持率は一向に上がらず、自民よりも危険な維新や、参政党、政治家女子などの支持率が上がっているのです。

 「生まれた土地は荒れ放題、
  今の世の中、右も左も、真っ暗闇じゃござんせんか
  何から何まで真っ暗闇よ
  筋の通らぬことばかり
  右を向いても、左を見ても
  ばかと阿呆のからみあい」
 (「傷だらけの人生」1970年 作詞:藤田まさと、作曲:吉田正)

 私が弁護士になった年に流行した鶴田浩二の歌ですが、今の世の中には、まさにこういう気分を抱えている人たちがたくさんいるのではないでしょうか。
 1ヶ月ほど前、あるテレビ局のコメンテーターは、今の政治状況について「絶望を感じている」と表現しました。それも同じ問題意識によるものでしょう。
 国会前に詰めて、声を限りに、次々と登場する国民や憲法に背を向けた悪法反対を叫ぶ人々の心の中にも、同じ絶望感が忍び寄っているのでは無いでしょうか。
 
 国会が国会として機能していない。
 国会議員たちが頼むに足りない。
 自公政権とその補完政党の議員たちのやりたい放題を食い止めようにも、「野党」の国会議員たちも腰が据わらず、頼むに足りない。
 こうした実情について、しばしば、それは国民が主権者として自立していないからだ、国民がそういう与党や補完勢力に投票するからだとして、国民に責任があるとする意見が語られています。
 表面だけみると確かにそうです。
 モリ・カケ・サクラなど、これでもかというほどに政治の私物化や腐敗状況が明らかになっても、政権を支持しつづける国民。
 甚大な被害はいまだに全く回復していないのに、原発推進に公然と舵を切り、安倍首相ですら出来なかった敵基地攻撃や殺傷能力のある武器輸出への道を開き、マイナカードへの疑問と不信がこれほど広がっていても、あくまで健康保険証廃止へ突き進もうとするというのに、その政権を支持しつづける国民。
 結局、国民が安倍を選び、岸田を選び、公明や維新を選び…、そして世の中がこんなにひどくなっているのに、我関せずとばかりに、無内容なテレビ番組や、グルメ番組、旅番組を見、チャラチャラと毎日を面白おかしく過ごしているじゃないか。これではどうしようもないではないか。
 これが、こんなにひどい世の中になってしまった原因を国民のせいにする絶望論です。例えば、1月8日の新聞のインタビュー記事で、小説家の中村文則氏は「『悪』は人々の無関心の中で行われる」と語っています。中村氏ですら、このように「国民の無関心」を問題として取り上げています。
 「無自覚な」国民を批判したり非難したり叱責したりする議論はむしろ一般的なように見受けられます。もちろん中村氏は人々を『悪』だと言っているのではありません。しかし、『悪』を許しているのは人々の無関心だと言っているわけで、その意味では、国民のあり方に原因を求めている側面があると思います。
 でも本当にそうなのでしょうか。
 国民がダメだから、国会がまともに機能しないのでしょうか。
 国民がだめだから、まともな国会議員がいなくなってしまったのでしょうか。
 国民に対して絶望を感じているこうした考え方・見方は正しいのでしょうか。

 問題は、その正反対なのではないでしょうか。
 国民こそが実は深い絶望の中にあるのではないかと思うのです。
 絶望される存在ではなく、絶望させられている存在なのではないかと思うのです。絶望というとわかりにくいなら「あきらめ」と言い換えましょう。
 国民に対して絶望を感じているあなたのありようこそが、国民を絶望させ、社会や政治に何も期待させなくしてきたのではないでしょうか。
 例えば、労働者のナショナルセンタートップの姿が、あのようなものであるということは、そのセンター傘下にある労働組合のリーダーたちが、あの会長と大差ないものの考え方と振る舞いをしているということになります。それはすなわち、傘下組合の職場にいる底辺労働者たちにとって、職場の組合は「自分たちの味方」ではないということだと思います。底辺で働く労働者の思いや要求を汲み取り、受け止めるのではなく、そうした要求が形を取ろうとすると抑えつけてしまうということではないかと思うのです。
 このように、この国では、少数者や底辺の人々が声を上げようとすると、社会の「上の方」にいる者たちが、よってたかってその足を引っ張ったり、抑えつけたりしてしまうのではないでしょうか。
 ここで、私が「上の方」というのは、会社の資本家や経営陣、国の権力者たちだけを意味するのではなく、底辺の人々、下(しも)々(じも)の人々の味方となって、資本家や経営陣や権力者たちと闘ってくれるはずの「野党」や「労働組合」や、「各種団体」のリーダーたちも含めています。
 わかりやすい言葉を使うなら「エリートたち」と言っても良いかと思います。
 この国は、そういう「エリートの、エリートによる、エリートのための」国なのです。
 これでは、憲法の理想とする「国民の、国民による、国民のための国」の逆立ちです。そして、この「エリートたちがこの国の全ての物事をハンドリングしていくという逆立ちした仕組み」をエリートたちは決して手放そうとしないのです。手放さないために全ての場面で共通して効果的に働くのが官僚主義です。
 官僚主義は少数意見を切り捨てます。
 人々が熟議することを認めません。
 すぐにメンバー間でマウンティングをはじめて、組織内、団体内の「エリート」と「その他大勢」を暗黙の内に振り分けて後者を、単なる数、物(小田急包丁事件の被告は、「いくつもの職を転々としたが、いつも自分は物のように扱われた」と供述しています。)のように扱います。
 民主主義が、1人1人が物事を決めるプロセスに主体的に参加できることを意味するなら、官僚主義は、最初から「非エリート」とされる人々を民主主義の枠組みから外していることになります。そうやって「外される」ことから抜けだそうとして、エリートたち(組織の主流、幹部たち)と異なる意見を発言したり、異なる行動を選択しようとすると、エリート達によって踏み潰されてしまいます。
 こうして、学校でも、職場でも、地域社会でも、「外され」「踏み潰され」続けてきた「非エリート」の一般国民に残るのは、「どうせ自分なんか何を言ってもしかたない」という絶望とあきらめなのではないでしょうか。
 こういう思いを抱きながら生活している人々は、おそらく国民の過半数を超えていると思います。
 あきらめ、絶望しているから政治に無関心で、その日その日を面白おかしく刹那的な快楽を求めて過ごすようになるのではないでしょうか。
 多くの国民をそうした状態にしたのは、教師や、政党や、組合や、団体や、運動の中のエリートたちなのです。
 それなのに、そのエリートたちが、国民のそういう状態に対して絶望的だというのは、本末転倒なのです。
 だから、絶望的状況からの出口を既存の団体や政党に求めようとすると、堂々巡りに陥り、出口が見えないという、それこそ文字通りの絶望的状況に陥ってしまうのです。
 
 さて、前振りが随分長くなってしまいました。本当に言いたいことは、ここからです。最後の「絶望的状況」は、それを作り出した既存の団体や政党に、その解決を求めようとすることから生じたものです。それでは「エリートによる解決」という問題の繰り返しを避けることができないからです。
 「1人1人が物事を決めるプロセスに主体的に参加できる民主主義」を本当に実現しようとするなら、「物として扱われ」「単なる数として扱われ」「熟議や決定から外され」続けてきた非エリートの国民が、主体的に物事を決めることができる仕組みとプロセスを作るしかないのです。
 そんなことができるのか。そう思ったあなた。それはあなたが、エリートたちの思考に毒されているからなのです。
 既に、1人1人の国民が、主体的に物事を決めることができる仕組みとプロセスを作る動きは世界でも、この日本でも始まっていて、着実にその成果を上げていて、それに続こうとする動きも広がっているのです。
 2011年のウォール街占拠運動の若者たち、グレタ・トゥーンベリが1人で始めて全世界の若者たちに広がった「未来のための金曜日」の運動、スペインのM15の運動、更に、そこから欧州各地に広がったミュニシパリズム(地域主義)など、1人1人が自分の要求を持って起ち上がり、主体的に行動する運動が世界各地で広がり、この日本にも、様々な形で始まっているのです。
 重要なことは、そうした運動の主な担い手となっているのは、既存の政党や団体や労働組合ではなく、市井の市民たちで、その運動も極めて多岐にわたっているという点です。
 例えば、
 認定NPO法人カタリバの取り組みで全国160校以上が参加するようになっている生徒自身の力で校則を変えるルールメイキング運動。
 各地で開かれるようになっているくじ引きで選ばれる市民が熟議して行政に政策提案をしていく気候市民会議。
 2022年に成立した労働者協同組合法に基づいて設立した労働者協同組合。
 栃木県塩谷町の全員町政。
 パートナーシップ条例を制定させている各地の取り組み。
 福岡県大刀洗町のくじ引きで選ばれた市民による住民協議会。
 PFASに対する地元市民たちの取り組み。
 首長・自治体職員・市民によるボトムアップの政治をめざすローカル・イニシアティブ・ネットワークの取り組みなど
 これらはいずれも縦割りで上から下に指示命令がなされるという取り組みではなく、地域横断的に、参加者の平等な地位と権利を大切にするものと言えます。
 
 そんなことは知らなかったですか?。あなたがそれを知らなかったのは、既存の「エリート社会」の担い手たちが、こうした動きを取り上げようとしないからです。そのこと自体、これらの動きが「エリートの、エリートによる、エリートのための国」を変えていく可能性を持ったものであることを雄弁に物語っているのです。
 そしてウォール街占拠運動のスローガンにならうなら、これこそ、これまでエリート達に押さえ込まれてきた国民が「我々こそ99%なのだ」と、絶望の中から起ち上がる可能性を秘めた希望なのです。

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