見えていなかった2つの道 「共産党宣言」から「田舎党宣言」へ

    

 若い頃、宮本常一、網野善彦の著作に触れて、この人たちの取り上げた「忘れられた日本人」や「道々の輩(ともがら)」あるいは「公界(くがい)」の世界を、私は、権力や権威の外に自立して存在する自由民たちの世界としてあこがれをもって受け止めたものです。同時にそれは、歴史の中に消えてしまって、今ではもう現実には存在しなくなったものであって、隆慶一郎や白土三平あるいは黒澤明の7人の侍の最後に残る農民たちなどの物語世界の中にしか存在しないものと考えてきました。
 ところが、斎藤孝平氏の「人新世の資本論」とその後の著作で未来社会像のキーワードとして「コモン」に触れたことから、自分の周囲を見つめ直したところ、「消えてしまって」「存在しなくなった」と思っていた「忘れられた日本人」や「道々の輩」や「公界」につながるものが、この国に脈々として存在し続けていたと言えるのではないかと考えるようになりました。
 存在しているのに、過去のものとして憧れるだけで、見えていなかったのです。
 斎藤さんに触発された目でみつめなおすと、こんなにも貴重なものが日本各地に存在していたというのに、どうしてそれが見えていなかったのか。
 いささか単純化した話をすると、これまで私は、日本の社会を少しでもより良いものに変えていくためにはどうしたら良いのかという問いの答えは、資本主義から社会主義の方向に変革することだと考えて、そのためには、そうした方向を指向する政党とその影響下にある運動を支持していき、その結果、社会変革を実現していける政権を樹立することが大切だと考えてきました。こうした考え方は、いきおい、政党中心に、社会の動きを捉えていくことにつながります。
 私が大学生となった1964年当時のそれは、「保守vs革新」の対立構造として社会を見ることであり、政党としては「自民vs社・共」の対立を軸に見ていくことにほかなりません。だけど、このように考えてきた私にとって、人生の後半は、失望の連続となっているのです。
 どういうことか。それは、社会党から分裂して西尾末広の民社党ができたように、対立軸の一方である「革新」陣営の側(当初のそれは「社・共」)のメンバーだったはずの人が、革新陣営から、「第2自民」,「第3自民」とでもいうような保守陣営に移動していくことが多くなっているからです。革新陣営の社会党を割って、民社党を結成した西尾末広とそのメンバーの動きや、自民党を割って創られた新自由クラブ、さきがけ、新生党などの第2自民党に社会党や社民党の一部や民社党が合流して新進党をつくり、更にはこれもまた第2自民でしかない国民民主などに合流していく、あるいは、それどころか、維新や希望などの極右政党に合流していくという行動が続くからです。
 そして、安倍政治の進行と維新、希望などの極右政党の登場で立憲主義が危機を迎える中で「革新」側の国民の期待を背負って登場したはずの立憲民主の中にも立ち位置がはっきりせず、いつ国民民主や維新などに流れてしまうかわからないような人が少なくないと思うのです。要するに、私の目からすると、今の議員たちは、「自分が議員であること」「議員でありつづけること」がなによりも大切で、そのためには、その時々の世論の風向き次第では、主義・主張など二の次、三の次に「風の吹いている政党」に鞍替えすることを恥とも思わないように見えるのです。
 そもそも、自公以外の政党を「野党」とどうして十把一絡げに呼ぶことができるのか。第2自民や第3自民のような政党や、むしろ自民以上の極右政党を立憲や共産や社民と並べて、どうして同列に「野党」と呼ぶことができるのか。私には不思議でなりません。
 そうした呼び方をすることが世上さほどの違和感もなく流布しているということは、言葉を換えて言うと、自公の目指す日本の将来像はどういうものなのかということや、その自公の将来像と明確に異なる将来像はどういうもので、そうした将来像をはっきりと掲げている政党はどこなのかという私たち日本国民にとって最も重要な問題についてのはっきりした認識が国民の中に存在しないことを示しているのではないでしょうか。かっての「保守vs革新」の対立軸は今の日本には無くなっているのです。
 ところが、私のような古い頭の持ち主は、いまだに「保守vs革新」の対立を軸に物事を捉えようとしていたのです。しかし、実際の社会はそういう対立軸では動いていないのですから、そのような考え方やそのような考え方に基づく行動が今の日本の現実から遊離したものとなるのはある意味で必然です。
 無党派層とされる人々が国民の4割を超え、5割に近づこうとしているのはそのためではないでしょうか。神奈川大学 人間科学部の調査によれば、年代が若くなればなるほど、無党派層の割合が多くなっています。20代では実に87%が「支持政党なし」なのです。
 このことの理由を、若者の政治的無関心に帰する説があります。確かに、表面だけを見ると、そのように見える側面があることを否定しません。でも、その「政治的無関心」は何故なのでしょうか。もちろんその原因・理由は一つだけということはないでしょう。ただ、様々な#Me Too運動に参加する人々や前回このブログで紹介したシンポジウム「コモンの風が吹きはじめた」に集まった人々など、中高年齢者よりも若い世代の人たちが多かったという事実は、示唆的なものがあると思います。
 端的にいうと、若者たちの抱える要求と、旧来の政治の世界で行動している政党の掲げる要求とが、かけ離れているのではないか。
 要求だけではありません。どういう集まり方をするのかということでも両者のそれはかけ離れているのではないでしょうか。
 かって、私は、ある問題で被害者支援のために集まった若者たちが、その場に労働組合の赤旗が林立したり、「シュプレヒコール!」というかけ声が響いたり、主催者側の人が壇上から「アジテーション口調」で演説を始めたりした途端に、潮が引くようにサーッと散って行ってしまったという場面を目撃したことがあります。つまり、被害者の悲しみ、苦しみに純粋に心を痛めて集まった若者たちは、かっての「革新」系の運動にとって、ごく普通だった「戦闘的な」行動の仕方(行動スタイル)に拒否感を示したのです。
 それは、
 誰かに号令され、誰かの駒のように扱われることへの拒否感であり、
物事を「敵か味方か」としか見ようとしない考え方への拒否感であり……、
 等々ではないでしょうか。

 因みに、余談ですが、「戦闘的な行動スタイルや物言いの仕方」を漫画チックなまでに極端化したものが、「敬愛する首領様」の行動を報じるあのニュース映像の女性アナウンサーですね。

 話を戻すと、「忘れられた日本人」「道々の輩」「公界」の人々は、権威や権力の外に、権力にも、土地にも縛られずに日本全国で自由な世界を持って生活していたのです。そこには、支配・従属の関係は無く、成員1人1人が自由で対等な関係でつながり、意思決定はみんなの協議によってなされていたのです。そうなのです。これは限りなく斎藤さんが言う「コモン」に近いものなのです。
 重要だと思うのは、こうした「コモン」は、実は、資本によってゆがめられ、人間性を奪われる前の人間本来の精神を根底にして成立するものなのではないのかということです。
 弱った仲間がいればみんなで助け合う。
 困ったことがあればみんなで知恵を出し合って解決していく。
 天の恵み、地の恵みは子々孫々まで伝え残すべきものとして、みんなで節度を以て受け取り、みんなで守り育てていく。
 などなど……
 みんなで助け合い解決していくということは、権威や権力を頼らないということであり、むしろ、権威や権力の介入や支配の外に身を置くこと。

 ちょっと待ってください。
 こういう視点で見ていくと、現在の日本にも、このような特徴を持った取り組みを進めている人たちは沢山いるのではないでしょうか。
 例えば、前回「コモンの風が吹いてきた」で紹介したいくつかの取り組み、例えば、過疎化によって荒れ果てた棚田、それと共にその地方の棚田でかってあった貴重な文化が消滅しかけているという事実を知って一流企業を中途退職してその地方に移住して棚田と文化の再生を進め、更にその周囲に様々な人の輪を広げている取り組み、
 例えば、全国各地にある里山再生プロジェクトに取り組む人々
 例えば、中越地震後の山古志村の住民中心の復興の取り組みは、地域住民が何事も話し合って決める復興(レジリエントな復興)によって成果を上げています。
 もっと身近な例がありました。全国各地に生まれ、人々に支えられて広がっている「子ども食堂」は、まさにそういうものではないでしょうか。子どもたちを地域みんなの自発的な協力によって守っていく、その取り組みは権威や権力の外にあり、みんなが平等な立場で、めいめいの持っている力を出し合って進められているのですから。

 災害が続くこの日本で、災害後の復興を巡る2つの道が鋭く対立しています。
 国や行政と巨大資本の主導の下に都市型の未来志向によって区画整理や再開発を進めようとする「復興」と、山古志村のように住民中心で地域住民の徹底した議論によってその地に根ざして進めようとする復興の対立です。
 渥美公秀氏(大阪大学人間科学部教授)の表現を借りるなら前者は、「発展志向の都会の論理で物事を勝手に決める」復興であり、後者は「集落住民と関係する人たちが対話を重ねながら」「公共とは何か、それを誰が決めるのか」を自らに問いつつ「人生の充足感を取り戻すために何ができるかを考え」て作り出す復興なのです。
 そして、この2つの対立こそ、日本の将来像を巡るかっての保革の対立に代わって登場している現代の日本の将来像を巡る対立に他ならないのだと思います。

 前者が強力に推し進められ、人々がそれに踊らされている状態を私は昨年12月6日のこのブログで「国民総狂躁状態」と表現しました。年を越して、「狂躁状態」は一層ひどくなっているのです。

 裏金問題も重要です。しかし、選挙のためのパフォーマンスを繰り広げているような国会での議論を繰り返すことよりも、彼ら彼女らに国の舵取りを任せて、国民の富を彼ら彼女らの勝手にさせ続けているのではなく、コモンとしての「人間の営み」を再生し広げようとして日本全国で取り組みを進めている人々こそ、国の舵取りを主導し、国民の富を活かす使い方を決めていくべきだということを国民の前に、明確に提示することの方がよほど大切なのではないでしょうか。

 ギャンブル関係のCMの異常な多さは、国民が持っている「蓄え」を吐き出させようとするものです。あるG1レースでは、2分少々で決着が着いたレースに500億円を超える馬券が売れたといいます。競馬・競輪・競艇・パチンコ・スロット・宝くじ等々、こうしたギャンブルに注ぎ込まれるお金は一体いくらなのでしょう。おそらく「兆」を超える金額でしょう。
 万博やIRのために使うお金。軍備増強のためのお金。「国民狂躁状態」を創るために流すCM費用。
 そうしたものの全てを、「人間の営み」を再生するための取り組みに活かしていくなら、そこにどんな未来が生まれてくるのか。
 それこそが「美しい日本を取り戻す」ことになるのではないのでしょうか。
 1ヶ月ほど前の新聞紙上に、人類学者の中沢新一氏が、おじの網野善彦氏の没後20年に、網野氏の研究とその意義について語る記事が掲載されていました。そこで中沢氏は、網野氏が、晩年のマルクスがかってのロシアの農民自治組織「ミール」を社会の再生すなわち共産主義社会の拠点になりうると説いたことに着目して、日本でも田植えや屋根の葺き替えなどの助け合いをする「結(ゆい)」と呼ぶ慣習があったことを評価していたとのエピソードを紹介して、網野氏の「公界・無縁・楽」は、マルクスにとっての「ミール」と通底するとして、その実態を解明して、その体験と知恵を新しい社会構築の原理に据えようとしていたと語っています。そして「強権的、官僚的な体制とは異なる草の根の共産主義への信念は生涯変わらなかった」というのです。
 「強権的、官僚的な体制とは異なる草の根の共産主義」。 これは、斎藤幸平氏の「コモン」にほかならないと思います。マルクスの共産党宣言が、歪曲されて「強権的官僚的な体制」になり、そこから1周回って、改めてマルクスの共産党宣言に立ち戻ろうとするコモンへ。
 と、ここまで書いたところで、雑誌「世界」の5月号に藤原辰史氏の「田舎党宣言」が出ました。私がつたない言葉で百万言費やすよりも、氏の3頁余の「宣言」は私が言いたいことをこれ以上は無いほど的確かつイメージ豊かに語ってくれています。
 というわけで、氏の共産党宣言ならぬ田舎党宣言の末尾の呼びかけをここに再掲させて頂きます。

 【世界の田舎者よ、団結せよ。
  基地も原発も廃棄物も戦場も、田舎に全部投げ捨てる都会からみずからを解放せよ。都会の賑やかさは空虚で覆われている。田舎の賑やかさは文化で満たされている。
  世界の田舎者よ、世界の都市の田舎化に着手せよ。】