めがね橋(2)スキー

めがね橋の上の浅川土手を渡る「通路」についての前回の話は、どうも私の筆力が劣るためもう一つイメージが掴みにくかったかと思う。そこで、グーグル・ストリートビューで、めがね橋周辺を探して、それを簡単なスケッチにして見ようと思ったのに、ストリートビューで出てくる画像は、余りにも当時と違ってしまっているのに驚かされた。幼い頃に散々世話になった高村のおばさんの葬式に行った時に同じ場所に寄ってみたが、そのときは、辰巳池にずいぶん人工の手が入り様子が変わっていたものの、めがね橋周辺は、まだ、当時の姿をとどめていたのに、それからさらに20年以上が経って、あたりの風景は、当時の面影のかけらも無くなっている。特に、めがね橋と浅川の下をくぐった北側は、かっては、遠くの戸隠から、刈田山を経て、黒姫に連なる山並みの麓まで、見渡す限りの畑やリンゴ畑だったのが、今では、住宅地に変貌しているようだ。

北長野の駅とめがね橋の中間辺りに辰巳池がある。線路と辰巳池の間に線路に沿ってチョロチョロと流れる小川があった。めがね橋の上を通る街道とは別に、その街道と平行に、そこよりもう少し北長野駅に近い位置に、前田鉄工所の北側の塀沿いを通る細い農道のような道があった。私や、私と同じ住宅地に住む子どもたちが家から小学校に通うには、前田鉄工所の北東の角を曲がって、この細い道を辿り、線路と小川を渡ると、左に辰巳池、右に経木工場を見る辺りで、めがね橋の上を通ってきた街道に合流し、そこから街道を長野方面に歩いて学校へというコースを通っていた。この道とめがね橋の上を通って行く街道との間には畑が広がっていた。冬になると、その畑には、麦の苗が芽を出していて寒さが厳しい日の朝、白く霜が降った道を学校に向かって歩いて行くと、畑では、農家の人が霜柱で浮き上がってしまった麦の苗を踏む姿を良くみかけたものだ。畑には、肥だめ(野壺)があり、夏の盛りの時期には、表面が照りつける真夏の陽にすっかり乾燥して周囲の地面と見分けがつかなくなるため、あたりを駆け回って遊んでいる子がズボッと落ちてしまうことが時々あり、そうやって肥だめにはまった子は、しばらくの間「くせぇ、くせぇ」と冷やかされたりしたものだ。

20200101_104112
昭和20年代の後半から30年代初めにかけての時期、周辺の道路は、まだ、どこも舗装されていなかった。通学路も当然その例外ではなく、冬の朝、この道を歩くと足元でザクッ、ザクッと霜柱を踏みつぶす小気味よい音がした。この道は、周辺の住民の生活道路としては、ほとんど利用されておらず、畑仕事をする農家の人たちや、私たちのように小学校に通う子たちが使うだけの道であった。
雪の降った翌朝、私たちは、いつもより早めに家を出て学校に向かった。それは、通学路と右手の畑は、その時間であれば、まだ誰も通っていないので、降り積もった雪が、足跡もなく真っ白な状態で残されているからである。その処女雪に友達と競い合うようにして、自分の足跡をつけるために駆け回ったり、寝転んで自分の姿や顔の形を雪の上に残したり、雪だるまつくりや雪合戦に興じたり、学校に着く頃には、手足の先は冷え切って凍えていても、身体からはぽかぽかと湯気が出るほどになっていたものだ。
長野県内でも、私の住んでいた地域は、豪雪で有名な新潟県との県境の飯山地域と異なり、それほど大量の雪が降ることはなく、1メートルを超すような大雪が降ったのは、記憶する限りでは、数回あったかどうかで、普段は、少し多く降っても30センチ前後で、だいたいは5センチから10センチ程度であった。
雪は、私たち子どもにとって、最高のプレゼントだった。
ただし、豪雪地帯の飯山に住む子どもにとって雪はあるいは、全く違うものだったのかもしれない。毎年のように、豪雪に閉ざされては「キ・マ・ロ・キ」(キマロキというのは、豪雪に立ち向かうために、蒸気機関車・雪かき車マックレー・ロータリー車・蒸気機関車の4両を連結した列車のことでその頭文字を取ってキマロキと呼んでいた)が出動したというニュースを耳にしていたのだから、少し想像力を働かせば、わかるだろうと言われるかもしれないが、そうではない。むしろ、キマロキのニュースを聞いたり、学校で先生が新潟の高田のガンギという特殊な街並みを教える授業で、この地域の豪雪のイメージを伝えるために、真っ白な雪の上に、ポツンと「この下に高田あり」という標識が立っていたという話をしたときなど、「いいなあ。そんなにたくさんの雪が積もってるって、どんな感じなんだろう。行ってみたいなあ。」と考えていたのだから。
そんなだから、夜寝る前に、窓から外を見たときに、周囲の闇が白っぽく変わっているのを感じとり、街灯の光の中に、降り落ちる雪が見えたりすると、もういけない。何度も立っては、窓をのぞき、雪がまだ降り続けているだろうか、雪の降り方はどうか、牡丹雪なんだろうか、粉雪なんだろうかと気が気ではないのだ。ところで、雪が降り続いているのか、止んでしまっているのかは、布団の中にいてもある程度わかった。雲が低く垂れ込めていて雪が降り続いている時には、北長野の駅を出るときの蒸気機関車の汽笛や、シュー、シュシュシュ、シューという蒸気を吐き出す音、機関車にひかれて、連結した列車が次々と動き出す時のガタ・ガタン・ガタ・ガタ・ガチャンという音、めがね橋のトンネルが近づいてボッ、ボーと鳴る汽笛の音などが、すぐ近くに聞こえるのだ。不思議なもので、雪が降ると、何となく、家の外がシーンと静まりかえっているような気がして「もしや?」と窓から外を覗くと外が真っ白になっていたりすることからすると、降る雪と積もった雪が、外の音を吸い取っているのではないかと思うのだが、なぜか、このように遠くの機関車の音だけは、すぐ近くで聞こえるようになるのだ。
翌朝、目覚めて、辺りが真っ白になっているのを見た時のワクワクする思い。
学校に行っても、授業など耳に入りはしない。窓からチラチラ外をみて、雪が舞っていればホッとし、雪が止んで陽が照っていたりすると、学校が終わるまでに雪が溶けてしまうのではないかと気が気ではない。
時に教師が、そんな私たちの気分を汲んでくれて、授業を急遽変更して、「みんな!外に出ろ」と校庭に生徒たちを出して、雪合戦などをさせてくれたこともあり、そんなときは、50分間フルに、校庭の雪の中でこけつまろびつ、汗びっしょりかきながら雪遊びに興じたものだった。

今日は、土曜日、学校は、半ドン(半日)で終わる。昨日の夜から降り出した雪は、30センチは積もって、辺りを真っ白に染めている。
優太は、授業の終わりを告げる教師の声を聞くと、一目散に学校を飛び出し家に戻った。その年の暮、母親は優太と兄に板スキーを買ってくれたのだ。それは子ども用の板スキーではあるが、それまで、竹スキーしかなく、板スキーを持っている周りの子たちをうらやましく思っていた優太にとっては、夢のようなものだった。
「この雪なら、あそこでほんとのスキーができる」それが優太の思いだった。
普段は、家のある住宅地の中のちょっとした坂道で竹スキーや、竹スキーをミカン箱の底に打ち付けて作ったソリや、竹ポックリなど(※)で滑って遊ぶだけで、坂道といってもその傾斜はごくわずかでしかないから、必死になってストックで漕がないと滑っていかないというのでは、せっかく母が買ってくれた板スキーも、余り出番がなかったのだ。
※竹スキー・竹スキーそり・竹ポックリなどについては、以前の記事「栗拾い」を参照してください。
「あそこ」というのは、めがね橋をくぐって上がっていく浅川の北側土手のことだ。その部分の土手には、土手の天端から裾まで単純に一直線の坂になっているのではなく、土手の真ん中付近で段差があり、2段になっている箇所があるのだ。だから、段差の無い箇所では、直滑降や斜滑降を楽しみ、段差のある部分では、少し年かさの子たちが、ちょっとしたジャンプを試みることができたのだ。

20200103_162218

しかも、そこは、土手の傾斜に吹きだまりが出来たりするため、家の周りの道と比べると遙かに深く雪が積もっているのだ。もっとも、その深さのため、竹スキーは、すぐに雪に潜ってしまうので、使い物にならなかった。だから、優太は、これまでは、そこに行っても、もっぱら竹スキー製のミカン箱ソリで土手を滑り降りるだけだった。それでも、きつい傾斜のため、ストックで漕ぐまでもなく、スピードをあげて土手を滑り降りるソリ遊びは、家の近くの坂道でのソリ遊びと違って、格段におもしろかったのだ。それが今度は、それまで板スキーを持っている子たちがやっているのを横目で見てうらやましく思っていた板スキーでの滑りを自分もできるのだ。興奮しないはずが無いというものだ。
息を切らせて家に帰った優太は、ランドセルを放り出すと、母親が朝出勤前に用意しておいてくれた昼食を食べる時間ももどかしく、板スキーを履くとめがね橋に向かった。「板スキーを履く」といっても今のそれをイメージしたら全く違う。そもそも、スキー靴などなく、スキー板の上にある留め金に、ゴム長(ゴムの長靴)を履いた足もとを皮のベルトで締め付けるのだ。家が貧しかったので、本格的なスキー板やスキー靴など買えるはずもなく、まして、スキー場に出かけてスキーをする余裕などなかったから、優太のスキー体験は、母親の買ってくれた子どもスキーで遊んだ中学生頃までで、その後は、全く縁が無くなっていた。そのため、それから10年ほど経って、勤めた会社の労働組合が主催するスキー合宿に参加して本格的なスキーを生まれて初めて体験したときに最も驚いたのが、前傾姿勢を取った時の形に足首を固定してしまうスキー靴であった。優太が子どもの頃にスキーを履く時に使っていたゴム長靴が、足首の自由を一切奪わないことは言うまでもないが、同じ頃、本格スキーをする人が履いていたスキー靴も、登山靴のようなものだったから、スキー靴を履いても普通に歩くことが出来たし、スキー板をつけても、普通にまっすぐに立っていることができたのだ。ところが、それから10数年後に、本格的なスキーを初めて体験したときに履かされたスキー靴は、最初から足首が一つの角度で固定されてしまっているから、まずスキー靴を履いてまっすぐに立てないし、平地を普通に歩くのもままならないのだ。そんなスキー靴を初めて履いたときの感想は、「なんでこんな不自由な靴を履かなければならないのか」ということに尽きる。「転倒したときにくるぶしの関節を骨折することから守るため」という説明を聞いても「そんなことがあるものか、こんな風に固定してしまったら、却って足首の関節の柔軟性を殺してしまって脛骨(すねの骨)をもろに骨折してしまうじゃないか」と思ったものだ。つまり、優太が子どもの頃に使っていたスキーは、今から思えば、クロスカントリーの歩くスキー用のものに近いものだったのだ。
そのスキーを履いて、家からストックで漕いだり、スケートのように滑ったりしながら雪の降り積もった道路を進んで、めがね橋まで行き、そこでいったんスキー板を脱いで肩に担ぐと、めがね橋の下の線路際まで降りて、線路沿いに浅川の向こう側まで出て、そこから線路を背に左手方向に土手をあがると目的の場所だ。すでにそこには、何人か子どもたちが来ている。知っている顔もいるが、余り知らない隣の部落の子も混じっている。
スキーデビューだった優太は、土手の天端に上ると、まずは、そこから恐る恐る土手の坂を斜めに滑り降りようとした。つまり斜滑降だ。
が、ことは簡単ではない。滑り初めてほんの1メートルも進まない内に、足元だけが勢いよく前に進み、その動きから取り残された身体は天を仰ぎながら尻餅をつく形で斜面に転倒してしまった。ちなみに、この転倒時の足と足首と身体の関係をイメージすれば、さきほど、かかと周辺を前傾姿勢で固定してしまうスキー靴について「これでは却って足の骨折が増えるじゃないか」と思った理由をわかっていただけると思う。つまりこういうことだ。へたくそな絵で説明しておこう。

20200102_212747

ともあれ、こうして、簡単に転んでしまうのだから、すぐに全身が雪まみれになってしまう。だが、そんなことは気にしない。転んでは立ち上がり、立ち上がっては転び、長さ10数メートルから20メートルほどの斜面に繰り返し挑む内、誰に教えられた訳でも無いのに、転倒を恐れてへっぴり腰で斜面の方に身体を寄せて滑ろうとすればするほど転倒してしまうということ、恐れて尻を引かず前に出し、そして思い切って斜面から身体を離すようにして滑れば転倒しないということを身体が理解していき、何とか、転倒せずに天端から下まで降りることが出来るようになる。
そうなるとますますおもしろくなる。次は直滑降だ。だが、これは容易ではない。そこで遊んでいる子たちの誰一人としてスキーの専門的な指導を受けた者はおらず、みんな自己流で遊んでいただけであるから、ボーゲンなどという言葉すら知らないのだ。従ってまたそこにいた優太を含む子どもたちにとっての直滑降は、ただひたすらスキー板を揃えて、斜面の真下に向かってまっすぐに滑り降りるだけという単純といえば単純きわまるもので、スピードを制御するなどという発想も技術もないのだ。むしろ、速く滑り降りれば降りるほど、「すごい!」というのだから思えば恐ろしいことをやっていたものだ。実際、優太に限らず、ほとんどの子は、「いくぞっ!」と蛮勇をふるって一直線に滑降したは良いが、そのまま土手下の畑との境界付近の大量の雪の中、さらにその下に大量の雪で隠れていた藪の中に突っ込んでしまうことも一度や二度ではなかったのだから、藪の中に隠れている笹竹や、枯れ枝で大けがをしたり、下手をすると目を突いて失明などということだってありえたのだ。それでも、子どもの学習能力はすごいもので、一度、雪と藪の中に突っ込む経験をすると、次からは、そうなる前に、わざと藪の手前で転倒してしまうということを覚え、そのうち、さらに、キュッと腰をひねってスキーを横向きにすることで藪の手前で停止できるようになるのだ。こうして斜滑降に続いて直滑降も出来るようになり、竹スキーやソリや竹ポックリだけの「おみそ」から晴れて卒業となる。
問題はそこから先だ。いよいよ、土手の途中の段差を利用してのジャンプだ。
ジャンプといっても、(これまた下手な図で恐縮だが)さきほど掲載した絵に描いたような段差を利用して飛ぶだけなので、宙に浮いている距離はせいぜい50センチメートルかそこらしかないのだが、これが、小学生の優太たちには、ものすごい恐怖なのだ。今から冷静になって振り返れば、ジャンプする瞬間に、そこから4~50センチ先の雪面を見て、そこをめがけるという感覚でやれば、あれほどの恐怖を感じずに済んだのだろうが、当時は、ジャンプする瞬間(つまり絵の土手の天端から段差のところまで滑ってきた時)に、視線の先は、どうしても、遙か先の斜面の下端(藪を埋める雪)の辺りに行ってしまい、ジャンプしたらそこまで飛んでしまうのじゃないかと感じてしまっていたのだ。
その結果、どうなるか。おわかりだろう。そう!すっかり腰が引けてしまうのだ。腰が引ければ当然、天を仰いで見事な尻餅をつくことになる。こうして、段差の少し下の雪面には、尻餅の痕でいくつも丸い穴が出来ていくのだ。
それでも、ジャンプが出来る子がかっこうよくて、自分も飛びたいと思うから、恐怖と戦いながら、繰り返し、挑戦する。そのうち、尻餅に変化が出てくる。最初の内は、ジャンプしたあと、お尻から着地するような尻餅だったのが、次第に、スキー板で着地した後に尻餅をつくというようになり、それもさらに挑戦を繰り返していると、スキー板で着地した後、少し斜面を滑降したあとで、尻餅をつくというようになっていったのだ。
ここまで来るとあともう一歩だ。そう、あの斜滑降の時の尻餅を思い出せば良いのだ。腰を引いてしまわず、前傾姿勢をとる。そうすれば、スキー板だけが先に前に進んでしまって、足を払われるようにして天を仰いで転倒することは無いのだ。
出来た!
初めてジャンプに成功し、その後も転ばずに斜面の下まできちんと滑り降りて、キュッと止まることができたときの、あの誇らしく、喜ばしく、そして晴れ晴れとした爽快感を優太は、今も忘れてはいない。
この日、優太が家に帰ったときには、冬の陽はすっかり西に傾き、足下の雪も、昼間は少し溶けかけて柔らかくなっていたのに、夕方になっての冷え込みで、凍ってガジガジと音を立てるようになっていた。それでも、身体をめいっぱい使って半日スキー遊びに興じついにはジャンプを飛べるようになったことで、優太の心は、ぽかぽかと暖かいものに包まれていた。

めがね橋(1)浅川:めがね橋渡り

20191101_143300

めがね橋というと、碓氷峠にある薄井第三橋梁や、長崎の中島川にかかるそれを想起する人も多いかと思う。碓氷峠のそれは、つづら折の峠越えの旧街道のカーブのすぐ脇に31メートルの高さでそびえ立つ4連アーチの煉瓦造りの美しい橋梁で、私がそれを最初に見たのは、もう3,40年前になる。障害をもった息子が生まれたことで、その移動の際の足としての必要性を感じて運転免許を取り、中古の小型車を10数万円で買った最初の夏、子どもたちを連れて戸隠のキャンプ場を目指して国道18号線を登っているときに、突然目の前に出現し、その圧倒的なまでの存在感と美しさに息を呑んだことを記憶している。この橋は、周囲の山々の木々に囲まれ、パステルカラーの新緑の早春、したたる緑の夏、幾重にも折り重なる錦のような紅葉の秋、そして数え切れないバリエーションの色調のブルーの陰影が白さを際立たせる雪景色の冬と、常にその表情を変えてとどまることを知らない。それでいて、そこに立つと、シンとした静寂に包まれて、まるで時が止まったかのように感じる。国の重要文化財にも指定されているこのめがね橋を見るためだけの目的で、わざわざ高速の上信越道を松井田妙義ICで降りて、旧街道を25分ほどかけてここを目指す人も少なくない。今はちょうど紅葉が始まった頃か。あるいは今年は紅葉は少し遅れているかもしれない。
長野から東京に上京して10年ほどの間は、生活の中でのふとした折に、自分がそうした人里離れた山の中にいるような感覚に包まれ、「あっ、いま枯れ葉がはらりと落ちて、しっとり湿った山の杣道に落ちた」など、わけもなく懐かしいような、物狂おしいような思いにとらわれることが年に何回かあったものだが、それから更に50年以上も経って、すっかり東京生活の垢に染まってしまった最近では、あの懐かしくもまたせつない感覚が自分を包むことはほとんどなくなってしまった。

20191101_115505
それはともかく、これから書くめがね橋は、こういう有名な橋ではない。おそらく全国各地にたくさんある地元の人たちだけが親しみを込めてめがね橋と呼んでいるようなそういう橋の一つである。
めがね橋の名前は、このブログで以前アップした「栗拾い」の中にも登場している。子供のころ私が住んでいたのは、長野市吉田東町。信越線(いまはしなの鉄道というらしい)長野駅を出て新潟方面に向かうと、次の駅が北長野駅、長野電鉄で長野から4つか5つ目の信濃吉田駅、この2つの駅が最寄りの駅になる。最寄りの駅といっても、北長野駅から子供の足だと2,30分、信濃吉田駅からはもう少しかかったので、果たして「最寄り」といえるかどうか。ともあれ、近くの駅はその2つだけなのだから最寄りというしかない。
この北長野の駅を出た列車は、左に辰巳池を見ながら徐々にスピードをあげていき、めがね橋をくぐると、北信濃の盆地を新潟県との県境目指してさらに速度を上げていく。めがね橋は、長野と朝日、豊野さらにその先では一茶で有名な柏原などを結ぶ古い往還とその付近でこの往還に接近している浅川を信越線の線路がくぐるために作られたアーチ型の陸橋である。めがねとは言うが、外見としては、アーチが2つ見えるわけではなく一つだけである。ただ、街道をくぐるためのアーチと浅川をくぐるためのアーチがそれぞれ別にあり、街道の下のアーチをくぐると、5、6メートルほど離れて浅川をくぐるためのアーチがあった。それで、2つのアーチということでめがね橋と呼ぶようになったのかもしれない。そこで、これからは、街道をくぐるアーチを一つ目のめがね橋、浅川をくぐるそれを2つ目のめがね橋と呼ぶこととする。
今から思うと列車の上を浅川が流れていたのだから、浅川は周囲の平地より相当高い位置を流れていたことになる。ちなみに、この浅川は、後に信州大学付属長野小学校の子たちが、「汚れ川」に挑んだことで知られる浅川と同じ川で、子どもたちが取り組んだのは、私が遊んでいた浅川よりもずっと上流の長野市内近くになるが、私が子供の頃は、フナやめだかや鮠(ハヤ)などが住み、夏はプール代わりに遊ぶこともできた小川だった。
街道を通って一つ目のめがね橋を渡るとすぐ右手に下の線路の方に降りていく土手道のような細い通路がある。そこを降りて線路沿いの道を2つ目のめがね橋の下をくぐって、向こう側に出ることが出来、そこからまた土手をあがると浅川の土手の上に出た。
浅川土手の上に立つと、目の前には、田やリンゴ畑、桑畑などが広がり、遠くには、ひときわ高い飯縄山から東に、これも栗拾いで登場した「かりたさん」や白岩、さらに黒姫などの山々が連なっている。手前のりんご畑の中にはため池も見えている。

20191101_145237
さて、ここまでに登場した辰巳池、めがね橋、浅川と浅川土手、その向こうのため池周辺は、わたしたち子どもの絶好の遊び場だった。もっとも、当時の子どもたちにとっては、遊びの8割以上は外遊びで、従ってまた、住宅地の中の空き地や通路はいうに及ばず、住宅地を囲む畑や田んぼなど周りはすべて遊び場だったと言っても過言ではなかった。
浅川、特に夏の浅川は、遊びの宝庫だった。とんぼやセミとりに出かけたときでも、浅川の岸辺に立つと、水の中の魚影や、澄んだ水の魅力に抗し切れず、腰にぶら下げていた手ぬぐいとベルトを即製のふんどし代わりにして川の中での水遊びに興じたものだ。フナや鮠(ハヤ)を捕まえてどうしたのか、記憶は定かではないが、家にあった金魚鉢に入れたのだったか。当時住んでいた住宅は私が住んでいた当時は長野市内の大きな書店だった西沢書店の所有するものだったが、元は2戸建一棟の県営住宅で、今はほとんど見かけなくなったが、2戸建一棟で周囲に簡単な家庭菜園を作ったりすることができる程度の10数坪ほどの庭を持つ都営住宅と同じような作りの住宅だった。その庭の片隅を堀り、コンクリートを自分で塗りつけて小さな池を作り、そこにごつごつして穴がたくさんあいた火山岩を置いて金魚や小魚を飼うことが当時流行っていた。私の家の庭にはそんなものはなかったが、遊び友達の昭夫ちゃんちの庭にはそういう池があったから、あるいは捕まえたフナや鮠をそこに運んで入れたのだったかもしれない。まあ、「釣った魚に餌はやらない」ではないけど、蝉やトンボと同じで、捕まえた後のことはほとんど記憶にないのだから、捕まえることじたいに、興奮し楽しんでいたというのが本当のところだろう。岸辺の水草の中を探っている手に伝わってきたビクビクッという魚の感触は、今でも「いたっ!」という興奮の記憶と共に鮮明に覚えているのだから。逃げないように、もう一方の手を添え、感触を伝えてくる水草ごとしっかりと握りながら、水から岸辺にあげていく。とはいえ、余りきつく握り過ぎるとせっかくの魚がつぶれてしまうから、そこには微妙な加減が必要で、そのことを私たちは、何匹もの魚を逃がしてしまったり、つぶしてしまったりしながら覚えていったのだ。
あるいはまた、友達と一緒に、河原の石を積んで、流れをせき止め、その堤防に手ぬぐいを網代わりに張って、上流から魚を追い込んで捕まえたりもした。魚を捕まえるのに飽きると、川の堰に出来ている深みで泳いだり、岸辺の笹の葉で作った笹舟を浮かべて競争したり、遊びの種は尽きないのだ。
ところで、2つ目のめがね橋は、信越線の線路の上を浅川を通すために作られているとさきほど書いた。つまり、めがね橋の上流や、下流は、通常の土手の中を流れている浅川だが、ちょうど線路の上にかかる少し手前から、線路の上から抜けて少し先までの20数メートルほどは、コンクリート製の四角い水路の中を流れることとなるのだ。ということは、浅川の両岸の土手とその天端の歩行路が、線路の上を流れる部分には無いこととなる。上流の歩行路と下流の歩行路をつなぐのは、線路の上のコンクリート製の水路の壁で、その幅がどの程度のものだったか、正確なことはわからないが、両足をそろえて立つのがやっとという程度だったという記憶がある。そういう細く狭いコンクリートの手すりも何もない裸の「通路」が、下の線路から10数メートルの高さの位置にあったのだ。通路と言っても、客観的には通路として作られたものなどではなく、むしろ、作った大人たちは、人がその上を歩くことを予想もしていなかったと思われる。
そこを渡る。いつからか高所恐怖症になってしまった今の私には考えられないことだが、当時は、そこを渡ることが、子ども社会の通過儀礼のようになっていたと記憶している。当時の子どもたちにとって、避けて通れない遊びの一つだったのだ。
最初にそこを渡ったのがいつだったか、これも記憶は定かではない。土手の切れる少し前から、土手の上の通路の真ん中に半ば土をかぶった2,30センチ幅のコンクリートが出てくる。そこを辿り、いよいよ線路の上に出るときには、その2,30センチ幅のコンクリートのほかには何もない。下を見ると一方には浅川とその草の生えた岸辺があるが、もう一方は10数メートル下の線路まで何もない。線路側に落ちたら確実に命を落とす。繰り返すが、体を支える手すりもなにも無いのだ。最初のときは、結局立って渡ることが、どうしても出来ず、20数メートルを這って渡ったと記憶している。
私の高所恐怖症はかなり深刻で、家の電球を交換するための脚立や、山荘の3階ロフトにあがるためのハシゴと言ったものでも、足がすくむ感じがするし、テレビや映画などで高いビルの屋上から下を俯瞰するような映像が出てくるとお尻のあたりがムズムズするといったていたらくであるから、今こうして当時のめがね橋の上のコンクリートのヘリの下に線路が見えたときの様子を思い出すだけでもお尻がムズムズしている。そんな私が、しかもまだ小学生低学年でしかなかったのに、どうして、たとえ這ってであっても、あんなところを渡ることが出来たのか今思うとゾッとする。しかも、何回目かには、立ったまま20数メートルを渡りきったという記憶もあるのだ。また、当時は信越線を走る列車は蒸気機関車であったから、おそるおそるめがね橋渡りをしている最中に、ちょうどその真下を蒸気機関車が通過していくということもあった。蒸気機関車というのは、前方にトンネルがあると、乗客に「これからトンネルだよ。窓を閉めないとススと煙が入ってくるよ」と教えるために、ボーッ、ボーッと汽笛を鳴らす。だから、北長野駅を出た新潟方面行きの列車は、めがね橋の手前で、ボーッ、ボーッと汽笛を鳴らすのだ。おそるおそるめがね橋渡りをしている最中にこの汽笛が聞こえてくると、這っていた体をさらにコンクリに貼り付けるようにし、顔を浅川側に向けて、ドキドキしながら列車の通過を待つのだ。一度、そうしないで、列車が来る前に早く渡りきってしまおうとしていた時に、下を通過する列車のはき出すモウモウとした煙をもろに顔に浴びせられたことがあり、それからの知恵だ。

20191101_142144

不思議なのは、当時、辰巳池など付近のため池で、子どもが命を落としたということは毎年のように耳にし、夏休みの前などには学校からもため池で遊ばないようにという注意がなされていたが、このめがね橋渡りに失敗して線路に転落して命を落としたという話も、それにまつわる注意を学校から聞いたという記憶もついぞないことだ。
それにしてもいまにして思う。私と兄を育て上げるために、毎日のように残業をしたり休日出勤をしたりしていた母が、もしこのめがね橋渡りのことを知ったら、いったいどんな思いをしたことかと。知られなければ何をしてもよいというわけではないが、知られなくてよかったと今更のように思うのだ。